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東京高等裁判所 昭和30年(行ナ)37号 判決

原告 安村扶

被告 高等海難審判庁長官

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「高等海難審判庁が同庁昭和二十九年第二審第八号機船大理丸機船トールース衝突事件につき、原告を受審人として昭和三十年七月二十七日付を以てした裁決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として次のとおり陳述した。

原告は甲種船長免状を受有し、大蔵省及び大阪商船株式会社所有にかかる機船大理丸総トン数八二七トンに船長として乗組んでいた者であるが、右大理丸が昭和二十八年一月五日午前八時五十分神戸港を発して長崎県高島に向け航行の途中、瀬戸内海来島海峡水域に差しかかり、同日午後九時二十五分頃中戸島潮流信号所と今治防波堤灯台を結ぶ線上の地点において東行の機船トールースと衝突した海難事件につき、被告はこれを受審人たる原告の運航上の過失に基因するものであるとして、原告の甲種船長の業務を二ケ月間停止する旨の裁決をした。その裁決の全文は別紙添付のとおりである。

しかしながら、右裁決理由における事実の認定は誤れるものであつて、相手船トールースの中戸島潮流信号所通過時刻及び衝突地点について重大なる誤断をなし、衝突に至るまでの両船の運航模様についても事実を誤認し、衝突直前トールースが大理丸の正当な針路を横切つてその左舷に進出したため、原告が止むなく右転を命じたに拘らず、それが衝突を避ける臨機の措置として妥当であつたか否かを考慮することなく、単に右転したこと自体を捉えて内海水道航行規則に定める航法に違反するとの形式的判断の下に原告に過失ありと断定し、且つトールース水先人広瀬広行の所為は事故発生の原因をなすものでないとして、不当にも本件衝突に関する凡ての責任を原告に帰せしめたのである。よつて以下被告の認定の失当なる所以を事項を分つて詳説する。

第一トールースの中戸島潮流信号所通過時刻並に衝突時刻について。

被告は右裁決において、トールースの右信号所通過時刻を昭和二十八年一月五日午後九時十八分(トールースの時計による)と認定しているがこれは誤りであつて、日本のラジオに合せた正確な時刻によれば午後九時十九分三十秒(トールースの時計によれば九時十六分三十秒)頃が正当である。

(一)  何となれば、トールースが中戸島潮流信号所を通過した時刻に関し、同所駐在の海上保安官伊藤善蔵は、信号所の柱時計はラジオに合せて正確であり、同夜事務所を出る前にトールースの汽笛を聞き、外に出てから同船の通過を目撃し、その後部屋に入り、同船の通過時刻を午後九時二十分と記録した旨証言しており、それは同人が部屋を出る前でなく部屋に帰つてからと考えられるから、目撃後部屋に入る時間を考慮に入れ、トールースの正確な通過時刻は午後九時十九分三十秒頃であつたと思われる。一方トールース水先人広瀬広行は、右信号所通過時刻は二十一時十八分であるが、安芸灘第七号灯浮標を通過した時刻は二十時五十分であつて、それも正確であると供述している。その供述に従えば同船はこの間五、九六浬を時速一二、七四節で航走した計算となるが、原裁決の認定する同船の航力は平均時速一三、五節であり、しかも当時順潮であつたことを考えれば、それは明かに過少である。同船がその平均速力時速一三、五節で航走するとすれば、所要時間は二十六分三十秒となるべく、且つ順潮であつたので、中戸島潮流信号所通過時刻は二十一時十六分三十秒以前でなければならない。それ故右信号所の時計とトールースのそれとの間には約三分の時差があることになるが、トールースの時計による通過時刻を午後九時十八分とした被告の認定は失当である。

(二)  衝突時刻につき、原裁決は九時二十二分(トールースの時計による)と認定した。しかし前記伊藤海上保安官の当審における証言によれば、宿直室でドスンという衝突の音を聞いたので直感的に衝突だと思い、立上つてガラス越しに今治方面を見ると、船灯が見え、直ちに宿直室の時計を見ると九時二十五分であつたとのことであるから、音の伝播する時間を考慮に入れると数秒の僅差はあつても、ほぼその時刻を以て正確な衝突時刻と見るべきであり、従つてトールースの中戸島潮流信号所通過より衝突に至るまでの経過時間は約五分三十秒となる。被告の認定によればその間四分を経過したに過ぎないこととなるが、これは誤りである。

第二衝突地点について。

被告の裁決によれば、衝突地点は中戸島潮流信号所から約百七十六度千五百五十米ばかりの所と認定しているが、その正確な地点は同信号所より約百七十七度二千三百米(約一浬四分の一)の所でなければならない。何となれば、トールースが中戸島潮流信号所を通過して衝突地点に達するまで、五分三十秒程を要したことは前記のとおりであるところ、トールースの航力と当時の潮流時速約三節(伊藤善蔵の供述による)とを考慮すれば、原告の主張する衝突地点が正当であり、裁決認定の距離千五百五十米は著しく過少なること明かである。そして伊藤善蔵の証言によつても、中戸島潮流信号所と今治灯台とを結んだ線上少くも一浬半位の地点であることが窺われ、シガード、クリスチヤンセン船長の供述書中、正確ではないが衝突約五分前に相手船を見たとの記載も、また原告の主張を裏付ける資料とすることができる。原裁決によればトールースの中戸島潮流信号所通過より衝突までの時間は四分であるから、時速平均十三、九五節となり、右信号所と馬島八十八米頂との間を一分間で航行したとしているから、この間の時速は一五、五四節となり、また衝突当時のトールースの船首方向がほぼ百度に向いていたと認定しているので、その前に船首を百三十度としたのは、衝突約三十秒前となるべく、この頃ストツプ、エンジン(機関停止)フル、アスターン(全速力後退)を命じている故、最後の一分間の速力は九、五節となる。しかしそれはトールースの平均速力及び当時の潮流時速に鑑み、いずれも過少といわざるを得ず、従つてこの点よりも衝突地点に関する被告の認定が失当であること明かである。

第三両船の運航模様並に衝突事故の過失について。

一、トールースの運航模様について。

原裁決は、トールースが百八十四度の針路にて中戸島潮流信号所を通過し、馬島八十八米頂に並航した後、ウズ鼻灯台に並ぶころ二短音を発して「ポート」(左舵)を暫くして再び二短音を発して「モーア、ポート」(もつと左舵)を令して左転中、相手船が両舷灯を表示し、やがて船首が百三十度に回つたころ、右舷船首二分の一点ばかりのところにて相手船は紅灯のみとなつたので、危険を感じ、急ぎ機関を停止、つづいて全速力後退にかけると共に、二短音を発して「ハード、ポート」(左舵一杯)を令したところ、船長は「ハード、スターボード」(右舵一杯)を令したので広瀬水先人はこれを拒み、その儘左舵一杯を持続せしめたが、船首が百度に向いたとき衝突し、相手船に接着した儘で一分時の後機関を停止したところ、両船は間もなく分離した、と認定している。

(一)  しかし、トールースがウズ鼻灯台に並ぶころ、二短音を発して「ポート」を令したとの証拠は、審判記録中いずれにも見当らない。広瀬水先人は第一、二審の審判調書(乙第六、十四号証)において、終始変ることなく、馬島八十八米頂並航時に「ハード、ポート」を令し、百三十度に向けたと述べているのであり、唯第二審(乙第十四号証)において中戸島潮流信号所並航直後「ポート」を令して漁船を避けたとの供述があるだけである。操舵手エギル、リーに対する証拠保全調書(乙第十二号証)及び理事官質問調書(乙第十三号証)においても、狭水道通過後どのような操舵号令が出たかとの問に対し、「ポート」「モア、ポート」「ハード、ポート」の命令が出たというだけで、ウズ鼻灯台に並ぶころ「ポート」を令せられたとの供述はない。なお広瀬広行の馬島八十八米頂並航時に「ハード、ポート」百三十度を命じたとの供述について見るに、南流時中戸島南方〇、五ないし〇、六浬のところに相当な渦流の存在することは公知の事実であるから、同人が未だ衝突の危険がないと感じていた時に、危険を冒して渦流の中を左転するよう命じたとは常識上考えられないし、同人はまた百三十度にセツト(定針)したとき馬島八十八米頂が真後になつて比岐島がヘツド(船首)になつたと並べているけれども、比岐島が百三十度になる線は竜神島附近を通り、トールースは大島山上を航行することとなる。従つて馬島八十八米頂並航時に百三十度に左転したとの供述は真実に反し、かかる事実は認められない。

要するにトールースはウズ鼻を通過するも「ポート」することなくして百八七四度の儘南下したのである。このことは原告本人の第一審第一回審判調書(乙第六号証)中「他船はサザイ鼻を過ぎているから、もう曲げると思いましたが、依然としてその儘のコースで来ますので、他船がサザイ鼻を一寸過ぎた頃本船はスロー(微速力)にしました」旨、及び第二審第一回審判調書(乙第十四号証)中「対手船はウズ鼻に並んだ頃には当然左転するものと思つていたが、ウズ鼻を替つているように思われるのにその儘進んでくるので、私はスローダウンした」旨の供述並に大理丸操舵手中山利雄の第一審第二回審判調書(乙第八号証)中「とにかく他船の赤灯は灯台の真下に向つておりました」旨の供述によつても十分認めうるところである。

(二)  更に広瀬水先人が「ハード、ポート」を命じたとき、船長シガード、クリスチヤンが「ハード、スターボード」を令したことは、操蛇手エギル、リーの証言により認められ、且つ原裁決もこれを認定しているのであるが、かかる船長の命令とこれに関する検討により「ハード、ポート」の実効が遅れたであろうことは当然考えられるところである。即ち広瀬水先人に対する理事官質問調書(甲第三号証)中、「船長は船橋にずつと居た。私が本船操船をやり、衝突少し前に操船に容かいしたが私はこれを拒否した」「私がポートを命じ百三十度に転針中、船長は左転は違法じやないかと云つたので、私は内海航法ではこうしなければいかんと云つて拒否したところ、船長は何も云いませんでした」旨の供述、第一審第一回審判調書(乙第六号証)中「船長がレツド(紅灯)対レツド(紅灯)で替すのではないかと云いますから、此処は内海航法でグリーン(緑灯)対グリーン(緑灯)で替るべきだと云つただけです」との同水先人の供述、及び第二審第一回審判調書(乙第十四号証)中「船長がヅウ、ユ、キープ、レツド、ツウ、レツドと云つたので、私はグリン、ツウ、グリンと云つただけと思う」旨の同人の供述、並にエギル、リーに対する神戸地方裁判所の証拠保全調書中、村井弁護人の「衝突直前に船長はこの人に対して直接操舵号令を与えたことありや。」との問に対し、エギル、リーの「船長と水先人は相談(Discussing・together)していた。船長はハード、スターボード(面舵一杯)と号令した。しかし水先人は面舵一杯ではない、取舵一杯にして置けと云つた。」旨の供述と、第一審第一回審判調書(乙第六号証)中、「船長やオフイサー(航海士)は英語は話せますか」との問に対し、広瀬水先人の「片言です」との供述並にクリスチヤンセン船長の供述書(甲第四号証)中、「相手船が右舷にぐつと針路を変更して赤灯を示したので、エンヂン、ストツプを命じ、次いで両エンジン、フル、スピード、アスターン(全速力後退)の合図をした。而して舵をハード、オーバー、ツー、スターボード(面舵に一杯)に取つた」旨の記載等を綜合すれば、船長より「ハード、スターボード」の号令による操舵上の容喙があつたことは明白で、かかる場合操舵手としては補助者たる水先人の号令よりは直接最高責任者たる船長の命令に従うべきが当然であるから、英語が片言しか判らない船長に対し、広瀬水先人が航法の説明をするのに或程度の時間を要すべきこことは容易に推認しうるところである。さればこそ第一審裁決もこの事実を認め、トールース船長シガード、クリスチヤンセンが特別航法の施行されている特殊の水域において、その航法を知らないのに水先人の操船に容喙し、左転の時機を一層遅延させたと判定したのである。

要するに、トールースは原裁決の認定した所より更に南下し、左転しつつ大理丸の正当な進路を横切る結果となつてこれと衝突したものである。

二、大理丸の運航模様について。

(一)  原裁決は、大理丸は午後九時八分頃竜神島灯台を千五、六百米に並航して西二分の一北に転針し、機関用意を令して続航した、と認定し、旧乙第二号証(航跡図)によれば、大浜灯台を左舷に見るような航跡を出している。しかし、第一審第二回審判調書(乙第八号証)には、「大浜灯台は船首どの位に見えましたか」との問に対し「船首より右側です」との桜木証人の供述があり、更にこの点につき、原告本人に対する理事官質問調書(乙第三号証)、第一審第一回審判調書(乙第六号証)、第二審第一回審判調書(乙第十四号証)における、大浜灯台を西二分の一北に見てから西二分の一北に変針したときは、大浜灯台を右に見ていた旨の終始変らざる原告本人の供述、並に操舵手中山利雄に対する第一審第二回審判調書(乙第八号証)における同証人の同趣旨の供述があつて、殊に右中山に対する理事官質問調書(甲第二号証)によれば、同人が船首の大浜灯台を補助目標として、それより右に向けないように操舵して進航していたことが認められる。それにも拘らず、被告はこれ等証拠を一切無視し、且つ桜木証人の証言中竜神島並航時と針路だけを部分的に採用し、不可分一体の関係にある大浜灯台の見え具合を採用しなかつたのは失当である。しかも、同証人の当審第一回の証言によれば。竜神島灯台に並航してすぐ西二分の一北に転針したといつたのは、並航後一分ないし二分してからのこと故「すぐ」と答えても大差なきものと思いかく供述した、というのであるから、原裁決が右の供述に基き竜神島並航と同時に変針したと認定したのは明かに誤りである。

(二)  原裁決はまた、大理丸は「午後九時十四分過ぎウズ鼻灯台が北西二分の一北三千四百米ばかりとなつたとき、右舵を令して針路を北西二分の一北とし同灯台を僅かに右舷船首に見て進行中」と認定し、その証拠説明において「ウズ鼻灯台が北西二分の一北となつた時刻並に地点は竜神島灯台航過後の針路模様と潮流模様を勘案して同灯台航過地点、同時刻から算出し」たとしているが、これは前記の如く竜神島灯台航過後の運航模様の認定に誤があつて、その誤れる認定を基礎としているばかりでなく、証拠説明の部分に「ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつたときに変針した模様は、安村受審人の原審並びに当廷における供述により」これを認めたとしているけれども、原告本人は理事官質問調書(乙第三号証)、第一審第一回審判調書(乙第六号証)、第二審第一回審判調書(乙第十四号証)において「ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつてから徐々に右転し、北西二分の一北にセツトしたときウズ鼻灯台は右四分の一ないし二分の一点に見えた」と供述しており、操舵手中山利雄に対する理事官質問調書(甲第二号証)中「針路は「イージー、スターボード」「イーヂー、スターボード」と徐々に命じられましたので、船首も徐々に右転して最後に北西二分の一北と云われましたので、北西二分の一北にしました。そして「北西二分の一北サー」と返事しました」との供述、並にその時「白い灯台の灯が右一点半ないし二点に見えました」旨の供述よりするも、竜神島並航後西二分の一北に定針した後大浜灯台を右に見て続航し、ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつてから徐々に右転し、北西二分の一北にセツトした時も同灯台を右四分の一ないし二分の一点に見て航行していたことが明かである。

また当時は南流の初期(甲第五号証の内海潮流図に示す憩流時と転流一時間後のほぼ中間)であり、且つ風向北東、速度二(大浜灯台長提出にかかる甲第六号証の気象観測写参照)であつたため、左方に流されつつ進航したのであるから、原裁決や旧乙第二号証の航跡図の如く、大理丸が中水道を東行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたものでないこと明白であつて、原裁決の認定は失当といわなければならない。

(三)  原裁決は更に衝突直前の大理丸の運航模様につき、午後九時二十分大理丸が一短音を発して右舵を令し、二十二分衝突したとして、衝突二分前に大理丸が右転したことを認定し、原告本人の「北西二分の一北の針路で進行中、トールースは正船首約半海里のところを紅灯を表示しつつ右方から左方に替り、左舷一点半ばかりで二短音を発し左転し来つたので、一短音を発して激右転し機関全速力前進したが遂に衝突し、衝突するまで相手船の緑灯は見なかつた」旨の主張を措信し難いとしている。しかしこの認定も失当であつて、事実大理丸は北西二分の一北の原針路のままで進航中、トールースが大理丸の前方進路に入り左転しつつ横切つたので急遽衝突を避けるため右転したに過ぎないのである。その証拠としては原告本人に対する理事官質問調書(乙第三号証)第一審第一回審判調書(乙第六号証)中の原告本人の供述、並に中山利雄に対する理事官質問調書(甲第二号証)中の同旨の記載が存し、これ等により優に右の事実を認めうるのである。

三、事故発生の過失について。

(一)  以上記述の如く、トールースは大理丸が北西二分の一北の針路にて正当な航路を進航中、原裁決認定の個所よりも遥に南下して大理丸の前路を横切つたため、仮令左側に広い水域があるとしても、大理丸が左転すれば必然衝突を免れない形勢に立到り、原告は所定の航法に従い右舷を相対して航過するに由なく、止むを得ず臨機の措置として右転したるも及ばず、遂に本件事故の発生を見るに至つたのが真相である。そもそも臨機の措置とは、規則をそれ以上遵守することが却つて危険であり、それによつて急迫した危難を避けられないと判断される瞬間以後において容認さるべきものであるが、原告の執つた右の措置は正しくこれに該当すべく、本件衝突の発生はトールース船長並に水先人広瀬広行の過失に基因すること明かである。

(二)  トールースが大理丸の針路を左転しつつ横切り、二短音を発して更に極左転したので、大理丸は止むなく臨機の措置として一短音を発し右転したことは前記のとおりであつて、大理丸が先に一短音を発して右転したのではないから、大理丸の行動は海上衝突予防法第二十七条に合致する。仮りにトールースのフル、アスターンを掛けたのが衝突直前でなくて、被告主張のとおり衝突前一分ないし一分半位であつたとすれば、この時両船の距離は六百米ないし九百米もあるので(被告作成旧乙第二号証の航跡図参照)、若しトールースがフル、アスターンと共に三短音を発していれば、大理丸もまた直ちにこれに即応してフル、アスターンをかけ、本件衝突は避け得られた訳である。それ故トールースが三短音を発しなかつたことは、海上衝突予防法第二十八条違反となり、少くもこの点において同船側に重大な過失がある。

四、被告の主張に対する反論

(一)  推せん航路の意義につき被告の主張するところは、自明のことであつて敢て争うものではないが推せん航路といい、適航方位線というも、単に航海者の便宜に出た一応の目安であつて、厳密な意味での規則そのものの具体的表現と考うべきではない。このことは、海図記載の推せん航路と海難防止会発行の内海航法図の適航方位線による航路とが必ずしも一致しておらず、部分的に可成りの隔りのあることによつても判る。さればこそ、内海水道航行規則第六条第二号には「前項の規定により中水道を通航する汽船は竜神島及びアゴノ鼻に近寄り、又西水道を通航する汽船は之を遠ざかりて航行する」とあつて、近寄り遠ざかりの限界を具体的に明示していないのである。

(二)  被告が原裁決において、大理丸が「同時十四分過ぎウズ鼻灯台が北西二分の一北三千四百メートルばかりとなつたとき、右舵を令して針路を北西二分の一北とし」たものとして、第一審裁決と異る認定をしているのは、竜神島並航と同時に転針したとする誤れる認定を基礎とし、且つ大理丸が西水道に向う航路をシヨート、カツトして中水道の航路を侵さんとしていたとの予断の下に、具体的な証拠に拠らずに、単なる推測に基いて認定したものであつて、失当というべきである。また原裁決は、「相手船はウズ鼻を替つても、左転の模様なくそのまま南下するように見え、同時二十分頃右舷船首約一点四分の一千二百メートルばかりのところに依然紅灯を表示しているので機関を微速力に減じたところ、云々」と判示し、その証拠説明において「相手船が左転の模様なく南下する様に見えた」との原告本人の供述を挙げているが、相手船が実際に南下していないのに南下するように見えたという原裁決に符合するような原告本人の供述は、第一審及び原審においても見当らないのである。

(三)  トールースの運航模様について、原裁決は同船が「同時十九分馬島南部八十八米頂に並航したる後ウズ鼻灯台に並ぶころ二短音を発して「ポート」を令し」と認定し、「安村受審人が九時二十分トールースが左転しつつあることを認めなかつたこと」をもつてその認定の一資料としている。しかし、原告本人の供述中トールースがウズ鼻を更に南下して大理丸の前路を横切つた旨の供述はあつても、判示の如き供述は見当らず、しかも原告本人が九時二十分頃左転を認めなかつたことが、何故トールースがウズ鼻で「ポート」したことの証拠となるか、甚だ諒解に苦しむところである。

更に、原裁決認定の如く、トールースがフル、アスターンをかけた後衝突直前の切迫した時期に、同船船長により「ハード、スターボード」の号令がなされ、広瀬水先人が航法を説明してこれを拒んだという証拠はなく、却つて同人に対する当審第二回の証人調書によれば、船長とデイスカスしたのは百三十度にセツトし、相手船の両舷灯が半点位に見えた時であるとの供述がある。

(四)  なお若しも被告主張の如く、トールースが機関停止、続いてフル、アスターンをかけたのが、衝突直前でなくて衝突一分ないし一分半前であつたとすれば、衝突後一分以上もフル、アスターンのままで大理丸を押し続けたという被告主張のような状態は実際に起り得ない筈である。それ故この点からしてもトールースのフル、アスターンをかけたのは原告の主張するように衝突前三十秒位であると見るのが正しく、従つてフル、アスターンの実効は殆ど生じていなかつたものである。

被告指定代理人は原告の請求を棄却するとの判決を求め、次のとおり答弁した。

原告が甲種船長免状を受有し、機船大理丸の船長であること、同船と機船トールースとが衝突した原告主張の海難事件につき、被告が原告主張の如き裁決をしたことは認めるが、本件衝突に至る経過は凡て裁決書の理由に掲げるとおりであつて、原告主張の如き事実の誤認はなく、右事故の発生につき原告にのみ過失ありとした被告の判定に何等不当の点はない。よつて原告の主張を左に反駁する。

第一トールースの中戸島潮流信号所通過時刻並に衝突時刻について。

(一)  被告がトールースの中戸島潮流信号所通過時刻を午後九時十八分と認めたのは、広瀬水先人の供述が終始九時十八分となつており(甲第三号証、乙第六号証、乙第十四号証)、トールース船長も九時十八分と供述している(甲第四号証)から、これと伊藤善蔵に対する証人尋問調書(乙第七号証)中の同人の証言とを照合して認定したのであつて、この時刻は、広瀬水先人が自ら正確だというコノ瀬小島東端一線の通過時刻(九時十二分)及び馬島八十八米頂通過時刻(九時十九分)とも符合するのである。広瀬水先人の供述する第七号灯浮標通過時刻は、同浮標通過地点より中戸島潮流信号所通過地点に至る経過時間とその間の航程とによつて算出されるトールースの速力が過少となり、その間同船が機関速力を減じた証拠もなく、且つ他の地点通過時刻との関係においても不合理を生ずることとなるので、この点に関する同人の供述は何等かの錯誤によるものと考えられるので、被告はこれを採用し得ないとしたのである。なお乙第七号証で伊藤善蔵はトールースの中戸島潮流信号所通過時刻を午後九時二十分と供述しているが(同人は部屋に帰つてから時計を見たとは供述しておらず、またその時刻を以て同人が部屋に戻り時計を見たときの時刻と断ずべき証拠はないから、信号所の時計による通過時刻が必ずしも午後九時二十分より前であるとはいえない。)、通過船舶記録(乙第五号証)も大体五分間隔に記録されており、第一審審判廷における同人の供述時刻も凡て五分間隔になつていることから見て、同人の供述する通過時刻が一分ないし三十秒を争う程の正確さを期しているものとは思われない。従つてこれを以て厳密な意味での船舶通過時刻を認定するには足りないが、大理丸側において竜神島並航以来時計を見ていないので、両船の使用時刻を比較する必要上、共に日本標準時を使用している中戸島潮流信号所と大理丸の各使用時計が同一時刻を示しているものとして、同信号所通過時においてトールースの時計と信号所の時計に一応二分ばかりの遅速があるものとしたのである。

(二)  衝突時刻の認定に当つては、被告は広瀬水先人、原告及び桜木実習生等の各供述並に伊藤証人の証言を比較検討して、運航当事者たる広瀬水先人の供述を最も合理的であると認め、これを認定の基礎資料としたものである。

(い)  即ち、昭和二十八年五月十四日付原告に対する第一審第一回審判調書(乙第六号証)及び同年六月二十二日付桜木証人に対する第一審第二回審判調書(乙第八号証)等によれば、原告自身は衝突時刻に時計を見ておらず、桜木実習生にこれを見させたというのであるが、同実習生もまたはつきり見ていないと供述しており、結局原告側では衝突時刻を誰も見ていないこととなる。従つて原告の述べる衝突時刻(乙第三号証昭和二十八年一月六日付安村扶に対する理事官質問調書)は信を措き難く、採用することができない。

(ろ)  次に、伊藤善蔵に対する昭和二十八年一月七日付理事官質問調書(乙第四号証)及び中戸島潮流信号所長の報告書(乙第五号証によれば、伊藤証人は室内で机に向つて通過船舶の記録を整理しているとき、ドスンという音を聞き直感的に船が衝突したのではないかと思い、直ちに南方海面を見て両船の舷灯と今治灯台との関係及び船影の輪かくまで認めて時計を眺め午後九時二十五分であつたというのである。しかしながら明るい室内から暗い室外を眺めたときは、室内の灯に眩惑されて外の状況は充分に視認することができず、また室外に出たとしても闇に眼がなれるまで約一分位は四囲の状況を認め難いものであることは、経験上明かであり、同証人が船影の輪かくまで認めて時計を見るまでに凡そ一分時を経過したことは確実である。しかも同人の時刻に関する供述は凡て五分間隔になつており、衝突の時に見た時計の針が正しく二十五分になつていたものか、その少し前にあつたものかまた衝突の音を聞いて時計を見るまでどれ位の間があつたものか判らないので、その証言する時刻をそのまま採つて正確な衝突時刻とすることはできない。

(は)  トールース船長クリスチヤンセンの供述書(甲第四号証)に、二十一時二十二分衝突が不可避となつたと記載してあるが、これは海難時刻を必ず記載すべきログブツク(航海日誌)の抜萃部分であつて、記述の前後の関係より見れば、単に右時刻に衝突が不可避の状態になつたというだけでなく、そういう状態になつて衝突したとの趣旨と解すべきであるから、被告はこれを広瀬水先人の供述と照合して衝突時刻を九時二十二分と認定したのである。

(に)  しかして、広瀬水先人の衝突時刻を九時二十二分であるとする供述は終始一貫し、同人は衝突時実際に自身で時計を見ており、しかもその時計はトールースの時計と合せたものであるから、被告はこれに基いて衝突時刻を認定したのであつて、ただトールースの時計と大理丸及び中戸島潮流信号所の時計との間に二分の時差があること前示のとおりである故、裁決において大理丸の時刻をトールースの時刻に換算したのである。

第二衝突地点について。

(い)  原告が裁決認定の衝突地点を誤りであるとし、それは中戸島潮流信号所より約百七十七度二千三百米の個所であると主張するのは、右信号所より衝突地点に至るまでの間トールースの要した航走時間を五分三十秒であるとする前提に立つのであるが、その前提自体が誤つていることは既に詳論したところであるから、原告の主張は失当である。

(ろ)  原告は、トールースが中戸島潮流信号所を通過してより衝突に至るまでの所要時間を四分とし、同信号所より千五百五十米のところで衝突したとすれば、同船の平均速力及び当時の流速より考え、その速力は過少に失し不合理を生ずると主張する。

しかし、船舶が転舵するときは、その前進速力の運動エネルギーの一部は旋回運動のエネルギーに変換され、舵角にもよるが、前進速力は一割ないし二割方減少すべきことが明かである。本件においてトールースが転舵したのは裁決書に示す如くウズ鼻に並航したころであつて、それ迄の速力は同船の機関の平均速力十三、五節に潮流の速度二節(水路部刊行の潮流表によると、当時の南流の最強流時速は四節となつており、潮流の流速の変化は数学のサイン、カーブを画くことは一般に認められているところであるから、乙第五号証中の潮流信号標示記録により、南流開始時二十時四十分、最強時(中央期)二十二時三十分、最強流速四節通過時二十一時二十分として算定すれば約二節となるので、伊藤証人の証言をも考慮し、当時最強のところで二節の潮流があつたと認定した)を加えた十五、五節であつたが、ウズ鼻灯台に並航してポートを令し、しばらくして「モアポート」を令し、船首が百三十度に回つた頃右舷船首半点五、六百米に大理丸の紅灯を見て全速力後退とともに「ハードポート」を令したのであるか、「ポート」を令してから「ハードポート」を令するまでは操舵のため速力は一割程減じ一分間平均約四百三十米即ち十四節ばかりの速力となつたこと明かであり、また「ハードポート」から衝突までは機関を全速力後退にかけているので、舵と機関の双方の影響によつて初めの一分間平均約三百十米即ち約十節に航力が低下したものと認められる。そして信号所通過地点から馬島八十八米頂並航及びウズ鼻灯台通過地点間は、それぞれ四百八十米、六百六十米となるので、それ等の通過時刻は前記トールースの速力より考え、それぞれ九時十九分及び九時十九分過ぎとなる。また「モーアポート」を令したのは大理丸が機関をスローにした時より後であつて、大理丸から見てトールースがウズ鼻を替つていると認められる頃であり、トールースは未だ大理丸に対し現実に衝突の危険を感じていないときであること等よりして、同時二十分過ぎであると認められる。そして「ハードポート」を令した時は、トールースが大理丸の紅灯を右舷船首半点ばかりに見、大理丸がトールースの緑灯をも見た時であり、その距離は五、六百米であつたことから、両船の衝突直前の一分間の航力が、それぞれ十節、七節ばかりとすれば、衝突前一分ばかり即ち二十一分頃と考えられる。故に十九分過から二十一分頃までのトールースの速力は平均十四節で、二十一分頃から衝突の二十二分まで約十節であつたとすることは妥当であつて、信号所通過から衝突地点まで同船の航程は約千七百米弱と認められるのである。

若しも原告の主張するように、トールースが衝突三十秒前になつて始めて機関を停止し、全速力後退とし、その時の速力が約十五節余であつたとすれば、七千トン以上の大型船たる同船が八百トンばかりの戦時標準船たる大理丸のしかも空艙状態の二番艙附近にほぼ直角に衝突した場合、大理丸の船体は衝突によつて切断さるべきことが経験上十分に考えられるところである故、被告は少くとも衝突前一分ないし一分半前に機関がストツプ、フル、アスターンとなつたとの見解を採つたのである。

(は)  伊藤海上保安官は第一審審判廷において、中戸島潮流信号所より衝突地点に至る距離を目測で一浬か一浬半と述べているが、同人は乙第四号証の質問調書においては、目測約一浬と述べており、同第五号証中の同人の報告及び当直記事にもいずれも約一浬と記載されているところからすれば、右第一審々判廷における伊藤の供述も、必ずしも一浬が誤で一浬半が正当であるという趣旨ではなく、しかもそれは目測に基く大体の見当を述べたにすぎないから、これを以て正確な衝突地点を確定するには足りない。即ち同人の供述する距離約一浬(一、八五〇米)が目測による幾分の誤差を含むものである以上、被告の認定した直線距離千五百五十米を不当とする原告の主張は理由がない。

(に)  シガードクリスチヤンセン船長の供述書中、正確ではないが衝突前五分前に相手船を見たとの部分は、凡その見当を述べているに過ぎず、確たる根拠に基くものではないので(初認のとき時計を見て云つているのではない。)、これまたそのまま採つて衝突時刻延いて衝突地点を認定する資料とすることはできない。

(ほ)  被告が衝突地点を中戸島潮流信号所より約百七十六度千五百五十米ばかりのところと認定した根拠は、原裁決に挙示するとおりであるが、なお付言するに、(一)伊藤善蔵の供述(乙第四号証、乙第七号証)によると、衝突地点はドスンと音を聞いて見たとき、信号所の当直室から今治灯台を見通す一線上(約百七十五度半)で約一浬のところであつたとのことであり、当直室は信号灯台のある所より二十米ばかり東方にあつて(乙第七号証)、衝突時は見たときより少し前であるから、これ等を考慮して信号所から約百七十六度の線上と認めたのである。(二)大理丸は北西二分の一北の針路でウズ鼻灯台を僅に右舷船首に見て進航し、右転して衝突したのである故、衝突地点は、大理丸が右転したことによつて北西二分の一北の針路線より右方に進出した横距離だけ取つた同針路線との平行線上にあることになる。しかして大理丸は九時二十分頃機関を微速力として進航中、トールースの二短音を聞いてから一短音を発して右転し、同船が次の二短音を発する頃、それを左舷船首一点ばかり約五、六百米に見たのであるから、その頃大理丸の船首は約一点半右転したことになり、船尾が北西二分の一北の原針路線を離れるか、離れない位の所にあり、それから一短音を発して激右転機関を全速力前進にかけて、船首が北東微北二分の一北のとき衝突したので、初の一短音から衝突する迄には六点回頭し、二度目の一短音からは四点半回頭したこととなる。その操舵模様、機関の使用模様、速力、(平均七ないし八節)大理丸の船丈を考慮すれば、原針路線から横距離百五十米ばかりの所において衝突したものと認められ(この認定が経験則に合致することについては、甲第七号証の大理丸旋回力試験表と対照すれば明かである)、その個所は即ち被告が裁決で認定した衝突地点と一致する。

第三両船の運航模様について

一、推せん航路について

被告は「大理丸が針路を北西二分の一北とし、ウズ鼻灯台を僅に右舷船首に見て進航し、本船が中水道を東行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたのに、速かにこれに遠ざかる方法をとらないで、原針路のまま続航した」と事実を認定した上、この認定は「大理丸の針路のままでは衝突地点附近において東航船の推せん航路と僅かに二百米を距てるのみであり、且つ東航船の転針点にあたつていた点に徴し」と説明し、右の事実が内海水道航行規則第六条第二号の規定に違反すると裁決したのである。よつて推せん航路の意義、推せん航路と内海水道航行規則及び本件との関係につき左に言及する。

水路誌は、海上保安庁が水路業務法(昭和二五年法第一〇二号)の規定に基き、航海の完全確保のため、海図と相まつて最も権威ある航海の指針とすべく編修して一般に刊行したものであつて、運航技術者はこの記事内容をそのままに信頼して船舶運航上の判断資料となし、航路、航海方法、針路方法に関するその記事は、運航技術の規範的方法とされている。ところで内海水路誌(昭和二六年一一月三〇日発行)によると、「航路・海図に記載の航路線は、大型船のとる推せん航路である。一般の船舶もなるべくこの航路を選定するがよい。」と記されており(一九頁)、来島海峡における右の推せん航路は、海図に黒線を以て印刷されている。しかして右内海水路誌の記載(二六頁―二七頁)によると、来島海峡における推せん航路は、内海水道航行規則第六条に定める特別航法を考慮してその趣旨に合致するよう作られたものであることが明かであるから、その推せん航路を以て同規則の定める航法の具体的標準を示すものとみなすべきである。

それ故本件においては結局、衝突した両船の何れが正しく推せん航路に添つて運航したか、そして何等かの理由で行き会いの、即ち真向いの状態が生じようとしたとき、内海水道航行規則第六条の規定に従つて右舷を相対して航過するような運航方法をとつたか、ということが重要な論点となる。若し被告認定の如くならば、原告は推せん航路に添つて西水道を通航する正当な航海方法をとらず、水路誌に特に注意されている南流における航海方法を無視して、独自の航海方法により船位を臆測して航行し、潮流の関係で自己の推せん航路附近を進航しているものと臆断しつつトールースの通航する中水道の推せん航路に著しく接近して進航し、同船と行き会うおそれを生じた際に、その左転信号を聞きながら、強いて右転して左舷を対して替そうと計り衝突するに至つたものであるから、これ即ち原告が内海水道航行規則第六条第一項第二号の規定に違反したこととなるのである。しかしてトールースは推せん航路に添い、中水道を通航する正当な航海方法に従つて進航し、正規の信号を行いつつ左転し、大理丸と行き会いのおそれを生じたとき、右舷を対して替すべく左転し、衝突の危険を生ずるや全速力後退にしたが遂に衝突するに至つたもので、従つてその運航は凡て合法的であり、本件事故発生の原因をなしていないのである。

二、大理丸の運航模様について

(一)  竜神島灯台並航地点について

被告は、大理丸が同灯台を南西微西二分の一西の針路で千五、六百米に並航したと認定したのであるが、これは原告安村扶の供述によつて認められるところの大理丸が高井神島灯台通過地点から南西微西二分の一西の針路をとつたこと(乙第三号証、同第十四号証)、備後灘航路第四、三、二号各浮標を左舷側に各二百ないし三百米隔てて進航し、竜神島灯台並航まで同一の針路であつたこと(乙第三号証同第六号証)により、これを認めたのである。原告は第一、二審審判において、竜神島灯台並航のときコンパスによつて大浜灯台の方位をとり、その方位が西八分の一北とも、西四分の一北とも述べているが(乙第八号証同第十四号証)、大浜灯台のこの方位は竜神島灯台を千五百五十米ないし千六百五十米ばかりに並航したことに帰着する。

(二)  西二分の一北に転針した時刻について

被告は、大理丸が午後九時八分竜神島灯台に並航して西二分の一北に転針したと認定したが、それは第一審における証人桜木貞夫の証言(乙第八号証)によつたもので、同人のこの点に関する供述は、衝突直後における理事官の取調(甲第八号証)の際と変りなく、また中山操舵手の証言(乙第八号証)ともその時の模様が一致しているので、これを採用したのである。原告は、原告本人が第一、二審々判廷において大浜灯台が西二分の一北になつて針路をそれに向け、大浜灯台を常に右に見ていた旨供述し、桜木、中山両証人とも同灯台を右に見て進行したと証言していることを挙げ、転針時は竜神島灯台並航後一分ないし二分であると主張するけれども、右供述内容には矛盾があり、採用し得ないものである。即ち、中山証人の証言によれば大理丸が西二分の一北に転針したのは、船長の号令によりコンパスによつてその針路に進航したもので、大浜灯台を針路目標として走つたのでないことが明かであり、仮りに原告本人の供述するように針路を転じたとしても、アドバンス及びトランスフアーを考慮すれば、実際上大浜灯台は右舷船首一度ばかりに見えることとなるべく、大理丸の如き手動操舵機による船舶の運航は、四分の一点以上船首を左右に振りつつ進航するのが通常であるから、必ずしも右灯台を正船首から常に同じ角度に見るとは限らず、それが常に右に見えたと供述するところに矛盾があるばかりでなく、その見え具合に関する各供述内容も区々であつて、条理に反する。

(三)  ウズ鼻灯台が北西二分の一北となつた時刻及び地点について

被告が右の時刻及び地点を認定した根拠は裁決記載のとおりであるが、詳述すれば(一)に述べたように、大理丸は竜神島灯台より南東微南二分の一南千五、六百米ばかりの地点から西二分の一北の針路で進み、速力十海里として潮流を南東微南一海里ばかりとすれば、その航力は九浬半ばかりとなるところ、リーウエイ(偏位)は左約半点となるので、竜神島灯台並航地点からリーウエイを加減したほぼ西の航跡とウズ鼻灯台を北西二分の一北に見る方位線との交点は、ウズ鼻灯台から三千四百米ばかりとなり、且つ竜神島並航地点から千八百米余となるので、大理丸が九海里半の速力でその地点に達するには六分強を要すべく、従つて右時刻を九時十四分過と算定した訳である。

(四)  北西二分の一北に転じた模様について

(い) 被告がウズ鼻灯台が北西二分の一北になつたとき右舵を令して針路を北西を二分の一北とし、同灯台を僅かに右舷船首に見て進航中、と認定したのは、次の如き証拠によるものである。即ち安村原告の供述中、ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつたので、針路を北西二分の一北に替えました、そして同灯台を少し右に見て進航していました(乙第三号証一一丁表六行―八行)、ウズ鼻灯台が北西二分の一北となつたとき、針路を北西二分の一北に変えた(乙第六号証一三八丁裏)、セツトしたとき四分の一点位右に見えました(同一四〇丁表)、ウズ鼻を北西二分の一北に見てスター、ボード、イージーを令し、北西二分の一北にコースをセツトした、そのときウズ鼻が四分の一点右舷に見えた(乙第十四号証七〇八丁)とあり、方位をとつた訳でもなく、目測であるから、大理丸の西二分の一北の針路から北西二分の一北に四点転針するのに要するアドバンスとトランスフアーを考慮して、同船がウズ鼻灯台を北西二分の一北に見る方位線の左方百米以内の針路線、即ち衝突地点附近の中水道の推せん航路から二百米ばかり西方を向く針路に定針したと認定した。しかしてこの針路では、同灯台を僅に右に見て進航することとなるから、裁決においてはこれを「僅に右舷船首に見て進行中」と表現したのである。

元来本水域を推せん航路に沿つて航行するには、適航方位線を利用して、潮流等の影響を修正しながら、常に船位を確認しつつ航行する航法によるべきであるに拘らず、原告はこの方法に従わず、竜神島並航後も大浜灯台の適航方位線によらないで、コンパスによつて西二分の一北の針路で進航したのである。そしてこの針路を定めたときも、またウズ鼻灯台を北西二分の一北に見て北西二分の一北の針路に定めたときも、常に南流によつて左方に圧流されることを考えて、予定航路線より右に針路を定め、目的地点に至る頃左に圧流されて予定航路線に接近するように、予定航路線に対しいわゆるシヨート、カツトして行く航法を取つたことを供述している(乙第三号証一二丁表一三行―裏七行、乙第六号証一三七丁表四行―裏六行、乙第十四号証七〇九丁表初行―六行同七三三丁表初行―七三四丁表後より二行)。また原告は、ウズ鼻灯台で北西二分の一北の針路にしたときも、二分の一点位左に圧流されると考えていた旨、及びウズ鼻を一ないし一ケーブル半(二、三百米)距てて通過する予定であつたと述べている(乙第十四号証七三九丁表六行―十二行)ところから、前記諸供述と相まつて、原告が北西二分の一北の針路にしたとき、ウズ鼻灯台に並航する頃には左方に圧流されて二、三百米になると思い、ウズ鼻から百米以内の地点に向けていたものと見るのは至当のことである。

(ろ) 被告が「本船が中水道を東行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたのに」と認定したのは、前記の如く大理丸が右転して北西二分の一北の針路としてウズ鼻灯台を僅に右舷船首に見て、同灯台を百米以内の地点に向けて進航するならば、当然その針路線は衝突地点附近において、中水道を東行する船舶の推せん航路と僅に二百米ばかりを距て、西水道を西行する推せん航路とは四百米ばかりを距てることになり、且つ東行船の転針点に当つているのが明白であることに拠つたものである。

これを裏付ける資料として、原告本人の次の如き供述がある。原告は、他船がサザイ鼻を一寸過ぎた頃、本船はスローにした(乙第六号証一四一丁表七行―八行乙第三号証一一丁表一三行―一五行)、対手船がウズ鼻を替つているように思われるのに、そのまま進んでくるので私はスローダウンした(乙第十四号証七一二丁表八行―一〇行)、他船が廻りよいようにスローにした(乙第六号証一四九丁裏六行―一一行)、と述べているが、これはハードポートをとつても順潮においては通常六百ないし八百米のアドバンスを持つであろうと思われる大型船たるトールース(乙第十四号証七一一丁裏四行)が、通例東行船の左舵を令するサザイ鼻を一寸過ぎた位では、明瞭に左転しつつあるのが判然しない筈であるのに、その頃大理丸がスローダウンしたということ自体、既にトールースとの関係が通常の状態でなかつたことを如実に物語るものに外ならない。若しも大理丸が西水道に向う推せん航路を通航していたものであるなら、仮りに相手船が違法に南下して左転するとしても、大理丸は少しく左転することにより互に右舷を対して無事航過しうる所にいる筈であるのに、何の必要があつて同船が逆潮に機関をスローにし、相手船を回頭しよいようにしなければならなかつたのであるか、理解し難いところである。この事実はとりも直さず、サザイ鼻一寸過ぎから、トールースが左転すれば、ほぼこれと真向いに行き合い船の形となることが予想されるような針路で、大理丸が進航していたからこそ、他船が廻り易いように自船の速力を減じたことを示すものというべきである。

また原告本人は乙第三号証(一一丁表末行―裏初行)において「対手船は本船の前路で左旋回すると考えましたが、殆ど左舷一点半になつて」と供述しているが、これも相手船に舵の故障等何等か重大な事故が起らない限り、通常左回頭する所で左転すると予想するのが普通であるから、トールースが大理丸の前路で左回頭するであろうと原告が考えたことも、大理丸が中水道の推せん航路に近い針路で進んでいた事実を窺わしめるものである。若しも、原告の主張するように、大理丸が西水道の推せん航路を正しく進航していた際に、トールースが異常に南下して大理丸の前路を過ぎり、左回頭を始めたというのが事実であるなら、大理丸は機関をスローにしているのであるし、相手船は二短音を発しているのであるから、機関を全速後退にかける以外他に安全な方法はない筈であるのに、相手船の二短音を二回も聞き、それぞれ一短音を発して右転及び激右転をし、全速前進をしていることは、如何なる理由によるものか、航法として理解し難いところである。

(五)  トールースを初めて認めた模様について

被告は、安村原告がトールースを初めて認めた時刻方位及び同船の位置について、同人の第一、二審々判廷における供述並にトールースの中戸島潮流信号所通過時刻を照合して認めたもので、即ち安村原告の供述によれば、北西二分の一の北の針路に替えて暫くして同船を見た(乙第六号証一三八丁裏三行―九行乙第十四号証七一〇丁裏九行―一一行)、トールースは中戸島信号所の少し北方で同島から頭を出した時に見た(乙第六号証一三九丁表三行―四行乙第十四号証七一一丁表初行―二行)、その方位はほぼ二点(乙第六号証一三九丁裏七行乙第十四号証七一一丁表四行)、となつているから、右舷船首約二点に中戸島の影から頭を出して来たトールースを、即ち信号所の少し北方に南下中の同船を初めて認めたものと認定したのである。その時の時刻については、原告本人の供述によると、衝突前五、六分前(乙第六号証一四〇丁裏八行乙第十四号証七一〇丁裏一三行)、初認九時十五分頃(乙第三号証一一丁表後より五行)、衝突時刻九時二十分(九丁表初行)とある所から、衝突より約五分前になるし、またトールースがサザイ鼻を一寸過ぎた頃針路を曲げないのでスローにし、それは初認後二分位である(乙第六号証一四一丁初行―一〇行)、ウズ鼻を替つているように思われるのに、そのまま進んでくるのでスローダウンし、それは衝突三分位前であつた(乙第十四号証七一二丁表六行―一二行)旨の供述があり、これ等の供述によるも、約五分前である。以上を綜合すると衝突前約五分位が初認の時刻となる訳であるが、被告がその時刻を九時十七分過ぎと認定したのは、前記供述よりすれば初認のときのトールースの位置は信号所の北方三百五十米ばかりとなるところ、既述のとおり同船の信号所通過が同時十八分である故、当時の同船の航力を時速十五、五海里ばかりとすれば、それは十七分過ぎとなるので、その時刻を採用したのである。そしてこれは原告の供述する衝突前五分位というのとほぼ一致することとなる。

(六)  衝突直前の運航模様について

(い) 被告が、大理丸が午後九時二十分機関を微速力にするまでの裁決記載の運航模様を認めたのは、原告本人において、トールースがサザイ鼻を過ぎた頃又はウズ鼻を替つた頃左転の模様がないのでスローにした、そしてその方位は右舷船首一点あるなしのところであつたと述べていること(乙第三号証一一丁表一三行―一五行乙第六号証一四一丁四行一〇行乙第十四号証七一二丁―末行)、によつたのである。トールースがウズ鼻に並航した時刻は、中戸島潮流信号所通過時刻とその後の航力で認定できることであつて、右通過時刻を十八分とすれば十九分過となり、ウズ鼻を過ぎて、しかもその左回頭が視覚で認められない時は二十分頃となるので、その時刻を採つて大理丸が微速力にした時と認定したのである。

(ろ) 大理丸が機関を微速力にしてから衝突するまでの運航模様については、裁決摘示の桜木実習生に対する理事官の質問調書(甲第八号証)における供述記載によつたもので、即ち同人は大理丸が短一声を吹いたのは、トールースが大理丸船首の少し右に紅灯を示したときであり、それが正船首になつたときも紅灯を表示しており、その時再び短一声を発し、そして左舷船首一点ばかりで両舷灯を表示したことを供述しているので、これと安村本人の供述並にトールースの衝突直前における運航模様を綜合して認定したのである。尤も安村本人は、トールースは左転すると思つたが、左転しないで前路を横切り、左舷船首一点半位になつて突然短二声して左転してきたので、今更ら左転も出来ないと思い、一短声してスターボードをとり、するとトールースが更に短二声を吹いて左転してくるので、本船は更に一短声を吹いて右転をつづけた旨供述している(乙第三号証一一丁表一三行―裏五行、乙第六号証一四一丁表一二行―裏七行)。これによれば大理丸が初めて一短音を発したときのトールースの方位が桜木の供述するところと違つているけれども、原告本人の供述するような両船の見合関係、距離に基き作図すれば現実に衝突が起らないことに帰着するので、桜木の前示供述に牴触する原告本人の右供述部分を排斥したのである。

三、トールースの運航模様について

(一)  トールースの左転地点について

被告が、トールースがウズ鼻灯台に並ぶ頃、二短音を発してポートを令し、暫くして再び二短音を発して左転中、と認定したのは、原告安村が九時二十分頃トールースの左転しつつあることを認めなかつたことと、大理丸の針路並に衝突直前の運航模様及びポートを令した後の相手船との見合関係を綜合して認定したのである。詳述すれば、原告安村は前記の如くトールースがウズ鼻を替つたと思われる頃は未だ左転の模様はなかつたと述べていること、大理丸の針路が北西二分の一北の針路で、ウズ鼻灯台を僅に右舷船首に見て進航中であつたこと、大理丸はトールースの左転し初めた最初の二短音を聞かず(トールースが三回二短音を発したことは広瀬水先人及びトールース船長の各供述により明かであるが、原告安村は二短音を二回聞いており、機関をスローにするころは未だこれを聞いてないというのであるから、距離も千六百米以上あることとて、最初の汽笛を聞き逃したものと思われる。)、二回目の二短音を聞いて一寸して一短音を発して右舵を令し、三回目の二短音を聞いて更に一短音を発し、機関を前進全速力にかけて激右転し、船首が北東微北二分の一北のとき衝突し、最後の一短音を発したときは、トールースにおいて大理丸の両舷灯を認めていること、及びトールースが初めの二短音でポートするときは、広瀬水先人も同船船長も何等大理丸と衝突する危険を感じておらず、二回目の二短音を発したころも、衝突の危険ある関係にはなかつたし、船首が転針目的の針路百三十度近くになつたとき、右舷船首約半点三ケーブル(約五百五十五米)ばかりに、大理丸の紅灯を見るに及んで、初めて衝突の危険を感じ、機関停止次で全速力後退にかけると共に、三回目の二短音を発してハードポートを令したことによつたのである。以上を綜合すれば、トールースが「ポート」暫くして「ポート、モーア」を令して左転中、次の針路百三十度(大理丸の原針路北西二分の一北とはほぼ平行線に近い)近くまで回頭したとき、大理丸がその右舷船首半点ばかりに紅灯を示して、トールースの前路を横切る体勢となり、初めて衝突の危険が発生したので、機関を停止、全速力後退、「ハードポート」として二短音を発したことになり、またトールースの百三十度近くになつた位置は、大理丸よりウズ鼻灯台を僅に右舷船首に見る北西二分の一北の針路線と百三十度の線とが平行線に近いので、大理丸の原針路線より少しく東方になくてはならぬこととなる。そしてトールースのマキシマム・アド・バンスはその船丈の五倍即ち約七百五十米前後と見るべきであるが(乙第九号証五一五丁裏末行伊藤補佐人陳述参照)、当時直ちに「ハード、ポート」をとらず、「ポート、ポート」、モーア」を令して緩く回頭し、百八十四度から百三十度に約五十四度ばかり回頭したことから見れば、潮流も順潮であつた故、船丈の約四倍(六百米)のアドバンスがあつたと考えられるので、トールースの百三十度になつた位置から百八十四度の原針路上をアドバンス六百米ばかり逆にとると、それがウズ鼻灯台にほぼ並航した所となるので、その地点をもつて同船の左転した地点と認定したのである。

しかして「ポート」を令した地点については、エギル、リーも供述していないし、馬島八十八米頂に並んだとき「ハードポート」をとつたとの広瀬水先人の供述は不合理で採用し難く、結局直接の証拠はないのであるが、トールース船長は、二短音を三回吹鳴し、最初の吹鳴は本船を「ポート」へ変針することを表わすのに程よい時になされた旨供述しており(甲第四号証五三頁16六二頁16)、右供述はそこで左転しても大理丸との間に危険を生じないような程よい時機になされたことを意味するものであるから(なお広瀬水先人も、左転するときも左転中も、衝突の危険は感じておらず、大理丸の紅灯を認めて初めて衝突の危険を感じた旨述べている。乙第十四号証七三一丁表初行―九行)、これまた間接に被告の認定を支持する資料となしうべく、結局被告は以上の諸点を運航技術上の経験則に照らして合理的にトールース左転の地点を認定した訳である。

原告は、トールースがウズ鼻灯台並航の頃左転したものでなく、百八十四度の針路のままで南下して、大理丸の北西二分の一北の針路線上を左転しつつ横切つたと主張し、その証拠として乙第六号証第十四号証中の原告本人の供述、乙第八号証中の中山操舵手の証言等を挙げるのであるが、原告本人の供述する見合関係ではこのような衝突は起り得ず、右中山証人の証言も矛盾多く何れもトールース南下の証拠としては採用するに足りない。

(二)  トールースの衝突直前の運航模様について

(1) 被告が、トールースが二短音を発して「ポート」を令し、暫くして再び二短音を発して「モーア、ポート」を令して左転中、相手船は両舷灯を表示し、やがて船首が百三十度付近に廻つたころ右舷船首二分の一点ばかりのところにて紅灯のみとなつたので、危険を感じ、急ぎ機関を停止、つづいて全速力後退にかけるとともに二短音を発して「ハードポート」を令したところ」と認定したのは、次の証拠によつたものである。

即ち、操舵手エギル、リーは神戸地方裁判所における証言及び理事官に対する供述において衝突前狭水道通過後一番最初「ポート」次に「モーア、ポート」その次に「ハードポート」の命令が出た旨、その操舵命令は水先人がかけた旨、トールースは「ポート」を令せられた後、ある針路を保持しないで絶えず左へ左へと旋回しつづけて衝突した旨を供述しており(乙第十二号証同第十三号証)、船長シガード、クリスチヤンセンは、緑灯をつけた船に出会つて水先人の指図によつて左舵を使い二短音を発した旨、接近する他船を見て最初程よい時に二短音を吹鳴して左転することを示し、更に短時間を置いて二短音を二回繰り返した、相手船が右舷にぐつと針路を変更して赤灯を示したのでエンジン、ストツプを命じ、次で両エンジン、フルスピード、アスターンの合図をした旨供述し(甲第四号証)、広瀬受審人の理事官質問調書中、「ポート」する直前二短音の信号をやり、左回頭中に(初めの二短音を吹いて三十秒程たつてから)更に二短音を吹き、百三十度にセツトするところになつて対手船は急に右転して方位が殆ど替らず、右二分の一点約三ケーブル(約五百五十米)のところで紅灯となつたので機関をストツプ、フル、アスターンに命じて二短音を吹き、更に引続いて「ポート」を命じた旨の供述(甲第三号証)があり、また同人は第二審々判において、百三十度に向つたとき、大理丸は右舷二分の一点本船の船丈の三倍半位(約五百二十米)のところで紅灯を示し右転したので、機関を全速力後退にかけた旨供述しておるので、被告はこれ等に基き認定したのである。以上の各供述を綜合すると、トールースの操舵号令は広瀬水先人がかけ、最初大理丸の緑灯を左舷船首方適当な方位距離に何等の危険も感じないところに見て、二短音を発して「ポート」を令し、暫くして再び二短音を発して「モーア、ポート」を令して左転中、大理丸が両舷灯を表示して右転中であることがわかり、やがてトールースが次の針路百三十度附近に向いた頃、右舷船首二分の一点ばかり五百二十米ないし五百五十米のところで紅灯のみとなり、方位が替らなくなつたので危険を感じて、急ぎ機関停止続いて全速力後退にするとともに二短音を発して「ハード、ポート」を令したことに帰するのである。かくして両船の見合関係は、トールースが初め「ポート」を令して左転中は、左舷船首方にあつた大理丸の緑灯が次第に左方から船首方に替り、船首を右方に過ぎる頃紅灯をも示し、右舷船首二分の一点五、六百米のとき紅灯のみとなり、方位が替らなくなつて衝突の危険が発生し、機関を全速力後退にし、「ハード、ポート」をとつたことになるのであるが、これを裏付ける大理丸側の資料としては桜木貞夫の供述がある。同人は「大理丸の舵のオーダーはわからないが、本船が初の短声を鳴らしたとき船は右に廻りつつあつた」旨を認め(乙第八号証三三三丁表四行―三四四丁表三行)、なお理事官に対しても「トールースが左舷船首一点ばかり距離船丈の十一、二倍のところで両舷灯を表示したのを見た」と供述しており(甲第八号証当審記録二五九丁裏六行)、これによれば今まで右から左方へ方位が替つていたのが替らなくなつたことになるのである。この双方の供述は距離の点で百米ばかりの差があるのみで他は全く符合し、両船の転針前の針路、転舵模様の関係と合理的に一致する見合関係を供述している。見合関係即ち方位が替らず、距離が近接していることによつて現実に衝突の危険を感知したればこそ、これを避けるため機関と舵とを異常に使用するに至つたもので、それはトールースにあつては機関を全速力後退とし、「ハード、ポート」をとつたときであり、大理丸にあつては全速力前進、激右舵を令したときであつて、両船の距離が少くとも五、六百米のところで、トールースからは右二分の一点位、大理丸からは左一点ばかりに見合つたときであることが明瞭である。

(2) 被告が「シガード、クリスチヤンセン船長はハードスターボードを令したので、広瀬水先人はこれを拒み、そのまま左舵一杯を持続せしめたが、船首がほぼ百度に向いたとき前示のとおり衝突し」と認定したのは、次の証拠によるものである。

即ち、エギル、リーは、広瀬水先人の「ハード、ポート」の号令の後、船長が「ハード、スターポート」と号令したが、水先人が「そのままにしておけ」といつたので、船長の命令に従わなかつた旨、及び船は絶えず左へ左へと旋回しつづけた旨を供述しており(乙第十二号証同第十三号証)、一方広瀬水先人の供述によると、「私は本船操船をやり、船長が衝突少し前に少し操船に容喙したが私はこれを拒否した」(甲第三号証三九頁)、「私がポートを命じ百三十度に転針中、船長は左転は違法じやないかと云つたので、私は内海航法ではこうしなければいかんと云つて拒否したところ、船長は何も云いませんでした(甲第三号証四四頁)、船長がレツド対レツドで替わすのではないかというから、内海の航法でグリーン対グリーンで替わすべきだといつた」(乙第六号証一八〇丁裏一二行―一八一丁表二行、乙第十四号証七二八丁表一二行―七二九丁表七行)、そして「竜神島灯台が左舷船首十度に見えているとき衝突した」(甲第三号証四三頁)というのである。以上によればトールースが百三十度近くになつて機関を全速力後退にし、広瀬水先人が「ハード、ポート」を令した後、船長が「ハード、スターボート」を命じたが、広瀬水先人はこれを拒んでそのまま左舵一杯を続けたことが明かであり、衝突したとき、竜神島灯台が左十度に見えていたことから、トールースの船首が衝突地点より百度ばかりに向いていたこととなる訳である。

原告の主張するように、トールース船長の操舵上の容喙のために、水先人の命じた「ハード、ポート」の実効が遅れたであらうと見るべき事情は存しないばかりでなく、仮りにトールースの船首が百三十度ばかりに向いたころ、「ハードポート」がかけられ、しかも船長の「ハード、スターボート」の号令のために舵効が遅れたものとしても、それは百三十度の針路がそのまま延びるだけのことであつて、原告の主張するように同船が百八十四度の針路のままで南下することにはならない筈である。

第四衝突事故の原因について

(一)  原告は、衝突前大理丸の右転したのは、相手船の不当な運航によつて起れる衝突の危険を避けるため、止むを得ずして採つた臨機の措置として正当であると主張する。しかし本件において衝突の危険が現実に切迫したとき、即ちトールースが百三十度近くに船首を向け、大理丸の紅灯を右舷船首約半点五、六百米ばかりに見た時以前に、大理丸は既に右舵を令しており、相手船が百三十度に向く頃半点ないし一点ばかり右転し、このような状態の下で、トールースの二短音を再び聞いたので、今更ら左転もできず、トールースの前路を早く過ぎ抜けようとして、全速力前進並に激右転したが、遂に衝突するに至つたものであることは、本件の証拠上明かなことである。

大理丸は内海水道航行規則の規定に違反して、トールースの正当な針路に近寄つた針路で進航し、同船が二短音を発して左転中であるとの合図を聞きながら、敢て一短音を発して右転したために衝突の危険を生ぜしめ、臨機の措置を必要とするに至つたものであつて、大理丸は一短音を発し、激右転する前にトールスの二短音を二回聞いており、初めの二短音を聞くや、一寸ためらつて(乙第六号証一四四丁表八行―十一行)右舵を令したのである。若しもこの場合大理丸が二短音を発して左転していたならば本件衝突は起らなかつた筈である。従つて原告の主張するように同船において臨機の処置として已むを得ず激右転したと云うことはできない。

(二)  原告は、トールースがフル、アスターンをかけるとき、短三声を発しておれば、被告の認定した両船の当時の距離から考え、大理丸もこれに応じてフル、アスターンをかけ、衝突を回避し得たのであるから、トールース側にも操船上の過失があると主張する。しかし、当時における原告安村の処置を見るに、トールースが二短音を発して左転しつつあるのに対し、大理丸は敢て一短音して激右転すると共に全速力前進を令していたのであつて、それは取りも直さず当時の情勢では、右転しつつある大理丸が激右転して全速力前進にすれば、相手船の前路を無事逃げ切れるであろうとの判断に基くことを示すものに外ならない。通常衝突の危険が切迫した際の臨機の処置としては、転舵と同時に全速力後退とし、万一衝突しても速力の減退により損傷を最少限に止めようとするものであるが、小型船においては操縦の容易さから、速力を増して相手船の前方を替しうる可能性ありと見て取れば、往々全速力前進とすることがある。同様にして原告本人はトールースの機関後退にかけていることを知らず、同船が前進左転中でもその前路を替わしうると考えて全速力前進を令したものと認むべきであるから、仮りに同じ状態の下で原告がトールースの三短音を聞いたとすれば、同船の前進力が減殺され、舵効が悪くなるために、自船を激右転並に全速力前進にかけることによつて、一層容易にトールースの前路を替わしうると判断すべきことは当然であつて、原告の主張するように、この場合大理丸が全速力後退により、衝突を避ける処置に出たであろうとは到底考えられないところである。従つてトールースが三短音を発しなかつたことは、結局本件衝突の発生には関係なく、その原因をなすものと認められない。

(証拠方法)

原告訴訟代理人は、甲第一ないし第四号証第五号証の一、二、三第六ないし第十一号証(但し第五号証以外は写)を提出し、証人広瀬広行(第一、二回)伊藤善蔵、桜木貞夫(第一、二回)、中山利雄の各証言、原告本人尋問並に検証(第一、二回)の各結果を援用し、乙第十七号証の成立は不知、その余の乙号各証の成立並に原本の存在を認めると述べ、被告指定代理人は乙第一号証(第二号証は欠号)第三ないし第十七号証(第十七号証以外は写)を提出し、証人伊藤善蔵、中山利雄、桜木貞夫(第一回)広瀬広行(第一回)の各証言並に検証の結果(第一、二回)を援用し、甲号各証の成立(写を以て提出した分は原本の存在も)を認めると述べた。

理由

原告は甲種船長免状を受有し、大蔵省及び大阪商船株式会社の所有にかかる機船大理丸総トン数八二七トンに船長として乗組中、同船が空艙のまま船首一、五一米船尾二・六二米の喫水を以て昭和二十八年一月五日午前八時五十分神戸港を発して長崎県高島に向け航行の途中、瀬戸内海来島海峡水域に差しかかり、同日午後九時を過ぎた頃(原告はその時刻を九時二十五分頃であるといい、被告は九時二十二分と主張する)、中戸島潮流信号所と今治防波堤灯台を結ぶ線上の地点において同船が東行の機船トールース(ノルウエイ、トンスベルグ在籍、ウイルヘルムセン汽船会社所属、総トン数七、〇七二トン)と衝突し、沈没したこと及び右海難事件につき被告がこれを受審人たる原告の運航上の過失によるものとして甲種船長の業務を二ケ月間停止する旨別紙添付の裁決をしたことは、本件当事者間に争がない。

本件における争点は、右衝突事故が主として原告の船長としての不当な操船に基因するものであるか否かに存すること勿論であるが、原告は、原裁決がトールースの中戸島潮流信号所通過及び衝突の各時刻と両船衝突地点とにつき重大な誤認をなし、延いて衝突に至るまでの運航過程並に衝突原因について認定を誤り、原告に操船上の過失ありと判定したのであると主張するところ、右衝突の時刻及び地点に関する事実を確定することは、本件海難事件全般を通じてその認定の基礎をなすものであるから、先づこの点につき審按する。

第一衝突時刻について

原告はトールースの中戸島島潮流信号所通過時刻が午後九時十九分三十秒位で、衝突時刻はそれより五分三十秒後なる同時二十五分であると主張するのに対し、被告は同船の中戸島通過は九時十八分が正当であり、四分の後同時二十二分衝突したと主張する。

(一)  トールースの中戸島潮流信号所通過時刻

(1)  成立に争のない(以下成立に争ない書証については一々これを特記せず)甲第三号証乙第六号証第十四号証当審証人広瀬広行の証言(第一回)によれば、トールース水先人広瀬広行は一貫して右信号所並航時刻を九時十八分とし、それは出帆のとき船の時計に合せておいた同人の時計を見ての時刻であると供述しており、同船船長クリスチヤンセンも甲第四号証の供述書において、同様九時十八分であると供述しているのであつて、これ等によればトールースが被告の裁決において認定するとおり、右の時刻に中戸島潮流信号所を通過したことを認めることができる。

(2)  原告は、広瀬水先人が安芸灘第七号灯浮標を通過したのが八時五十分で、それも正確であると供述しておるところ、トールースがその平均速力一三・五節で航走したとすれば、同所より中戸島潮流信号所に至るまでの所要時間は二十六分三十秒となるべく、従つて同信号所通過時刻は九時十六分三十秒となる訳であるが、信号所の時計とトールースのそれとの間には約三分の時差があるので、右信号所の時計による通過時刻は九時十九分三十秒となる旨主張する。しかし、広瀬水先人の中戸島潮流信号所通過時刻に関する供述は、その前後の時間的関係に照らし合理的であると見られる。即ち、甲第三号証乙第六号証に徴すれば、同人の供述にかかるコノ瀬灯標と小島東端一線、右信号所及び馬島八十八米頂の各通過時刻は、それぞれ九時十二分、九時十八分、九時十九分となつており、トールースの平均速力が十三・五節で(甲第三号証乙第六号証参照)、且つ当時順潮であつたことを考慮すれば、平均速力十四・二五節位と見るのが妥当である故(この点は、原告も第三準備書面において概ね妥当であると認めて争わない)、小島東端コノ瀬一線の地点から中戸島潮流信号所に至るまでの二千六百四十五米を航走するに六分を要し、同信号所より馬島八十八米頂に至る約四百八十米の間を一分を要して航走した結果となるので、前記各通過時刻に関する供述は、これを首肯しうるものと認められる。若しもトールースの安芸灘第七号灯浮標の通過時刻に関する広瀬の供述が正確であつて、一方中戸島潮流信号所通過時刻を九時十八分であるとする供述の正確性を裏付ける何等の資料がないとすれば、なる程原告の主張するとおり、トールースがその間の一万一千米余を航過するに二十八分を要したこととなるのは、同船の前記平均速力に照らし明かに不合理である故、右距離を平均速力で航過するに要する時間を算出して、中戸島潮流信号所通過時刻を求むべきであるかも知れないが、本件においては同信号所通過時刻を前後に差し挾む小島東端コノ瀬一線及び馬島八十八米頂の各通過時刻に関する供述があり、それがトールースの平均航力と照応しいずれも妥当と認められるので、これ等地点の通過時刻に関する供述が尽く誤であるとの証拠が存しない以上、却つて第七号灯浮標通過時刻についての広瀬の供述自体が、恐らくは何等かの過誤に基くものであろうと推測せざるを得ないのである。

(3)  証人伊藤善蔵はトールースが中戸島を通過した時刻は、九時二十分(日本のラジオに合せた時計による)であると述べている(乙第四号証第七号証及び当審の証言参照)。しかし、それは予め用意して通過船舶の中戸島潮流信号所に並航する瞬間を捕えて厳密にその時刻を記録したものでないばかりでなく、後記の如く伊藤証人の時刻に関する供述が、殆ど五分刻みでなされていることに徴し、同人の時計の見方は概ね五分を基準とし、その前後に分秒の差があつてもこれを度外視していた程度のものと認められるので、厳密な意味での正確は期し難く、多少の誤差あることは免れないもののようである。従つて伊藤の供述にかかる日本標準時によるトールースの中戸島通過時刻とトールース側の時計による同所通過時刻との差が、そのまま日本標準時に合せたという大理丸側の時計とトールース側のそれとの時差であると断定することはできない訳であるけれども、両者を比較換算するため、他に適当な標準がない以上、原裁決において大体伊藤の供述する時刻にトールースが中戸島潮流信号所を通過したものとして、大理丸の時計とトールースの時計との間には一応二分程の差違があるものとしたのは止むを得ない所であろう。即ちこの二分の時差は厳格に云えば正確なものではなく、およそそれ位の差があつたというに過ぎないものである。

以上の諸点から考え、トールースの中戸島潮流信号所通過時刻に関する原裁決の認定は妥当と認むべく、原告が同船の安芸灘第七号灯浮標通過時刻を基礎として算出した中戸島通過時刻の主張は採用することができない。

(二)  衝突時刻

(1)  先づ指摘さるべきことは、衝突時刻につき大理丸の側からは何等的確の資料を見出し得ないことである。即ち乙第六号証(原告安村扶に対する第一審第一回審判調書)によれば、問「衝突の時時計を見ましたか」答「アブレンツに時計を見させました」とあり、然るに乙第八号証の証人桜木貞夫(実習生、アブレンチス)に対する第一審第二回審判調書には、問「衝突時刻が午後九時二十分とありますが、時計ははつきり見たのですか」答「はつきり見ておりません、夜光時計ですから」問「夜光時計は実際に見たのですか」答「見ません」との問答があつて、結局大理丸の側では時計によつて衝突時刻を正確に認知した者はないこととなる。

(2)  次に衝突時刻に関する原告側の主張は変転して一貫していないことである。即ち、乙第三号証の原告に対する理事官質問調書では九時二十分と述べ、原告輔佐人提出の航跡図(乙第十六号証)には九時二十三分頃と記載され、同じく乙第十号証の航跡図には九時二十五分とあり、更に本訴においても同じく九時二十五分と主張している。

(3)  この点につき、広瀬水先人の供述は理事官の取調より当審証人尋問に至るまで終始一貫して、九時二十二分に衝突し、乗船の際船の時計に合せた自己の時計によつて衝突時刻を確認した旨述べている(甲第三号証乙第六号証同第十四号証、当審証言参照)。

(4)  トールース船長シガード、クリスチヤンセンの領事館における供求書(甲第四号証)中、航海日誌の抜粋によれば、2122 the Collision was unavoidable at the Meeting vessel was across our front.とある。これは他国語の英訳であつて、同号証には、「二一、二二時には衝突は不可避となつた。何故ならば相手方の船舶は本船の舳を横切つていたから云々」との日本語訳が付されている。

この日本語訳によれば、本船々首を横切りつつあつた相手船との衝突は不可避となつたとの意味に読まれ、衝突不可避と感じた時と実際の衝突時刻との間には若干の時間が存するもののようである。しかし、元来航海日誌には海難発生時刻は当然記載さるべきであるのに、最も重要な衝突時刻の記載が他に見当らないことと、右引用の文句に続いて、Immediately we put two lifeboats on the water and the pilot Called over to the other vessel asking if they needed assistance(本船は直ちに二双のライフボートを降し、水先人は相手船へ救助が必要かどうかと呼びかけた)と記載しているが、衝突前に救命艇を水面に降すことは通常考え得られないところであること等、前後の関係によつて見れば、右航海日誌の文句は「二一、二二時には衝突を避けることが出来なくなつて衝突した」との趣旨に解すべきである。

(5)  原告は、中戸島潮流信号所勤務の海上保安官伊藤善蔵の証言によれば、同人は宿直室で船舶の衝突音を聞き、窓から船灯をを見て直ちに時計を見ると九時二十五分であつたというのであるから、音の伝播する時間を考慮に入れれば微少の差はあつても、ほぼその時刻を以て正確な衝突時刻と見るべきであると主張する。

しかし、乙第四号証(伊藤善蔵に対する理事官質問調書)、同第七号証(同人に対する神戸海難審判庁の証人調書)、同第五号証(中戸島潮流信号所長報告書)中の伊藤保安官報告部分等を通覧するに、

トールースの中戸島潮流信号所通過時刻 二十一時二十分

衝突時刻               同 時二十五分

大理丸の汽笛と思われる音を聞いた時刻 同 時三十五分

両船の姿が視界外に出た時刻      同 時四十分

大理丸沈没推定時刻(長声一発)    同 時四十五分

転流時実測              二十時四十分

と記載され、なお乙第五号証添付の通過船舶記録を見ても、記載八十八回のうち、只一回だけ二十時〇七分とあるのを除き、他は凡て五分刻みとなつている。

これ等の資料から知りうるとおり、伊藤保安官の陳述または報告にかかる時刻は、大体五分間隔になつておるものと見なければならないので、同人の衝突時刻に関する証言も一、二分程度の差異を容れない程の正確さを持つているものかどうか疑わしく、一面同人が衝突音を聞いて時計を見るまでにいくらかの時間は経過している筈であるし、従つてその供述する衝突時刻を採つて、直ちに的確な衝突時刻であると認めるに躊躇せざるを得ない。

以上の諸点点を綜合し、本件衝突の時刻は広瀬水先人の供述する九時二十二分が正当であり、原裁決の同旨の認定は相当というべく、従つて、トールースが中戸島潮流信号所を通過して、衝突地点に達するまでには、四分時を経過したものと認定する。

第二衝突地点について

本件衝突事故の地点が、中戸島潮流信号所と今治防波堤灯台を結ぶ一線上にあることは当事者間に争がなく、ただ右信号所より衝突地点に至る距離が争われ、被告の裁決においては衝突地点は中戸島潮流信号所から約百七十六度千五百五十米ばかりの地点であると認定したのに対し、原告は右認定は誤りであつて、正確な衝突地点は同信号所より約百七十七度二千三百米(約一浬四分の一)程の所でなければならないと主張する。

@(1) 中戸島潮流信号所より被告の認定した衝突地点に達するまでのトールースの航程を、その認定した航路に従い、海図によつて計測すれば約千七百五十米となり、原告主張の衝突地点に至るまでの航程は同様にして約二千五百米となる。今これを四分間で航走したとすれば、被告主張の衝突地点に達するまでの同船の平均速力は約一四・二節となり、原告主張の地点に達するまでのそれは二〇・二節となる。然るところ、当時の南流の速度が水路部刊行潮流表に記載されているとおり、最強時において時速四節であることは原告の明かに争わないところであるが、乙第五号証添付の中戸島潮流信号標示録に徴するに、同信号所の標示した南流開始時は二十時四十分、中央期二十二時三十分末期零時二十分となつている故、潮流の最強時は右中央期と末期の各信号標示時刻の中間に当る二十三時二十五分頃と認むべきところ、最強流速を四節とし、トールースの通過時刻を二十一時二十分として計算すれば、潮流の速度は約二節となり、伊藤善蔵が乙第四号認理事官質問調書において流速二ないし三節と供述しているものともほぼ合致するので、被告がトールースの速力をその航力十三・五節に潮流速度二節を加えた平均十五・五節であると認定したのは妥当であつて、それはまたトールースが中戸島通過後馬島八十八米頂に至る四百八十米を一分間で航過したことから算出される同船の速力と符合する訳である。一方トールースの衝突に至るまでの操舵模様を見るに、甲第三号証広瀬広行に対する理事官質問調書、同第四号証シガード、クリスチヤン船長供述書、乙第十四号証第二審々判調書中の広瀬広行の供述記載部分、同第十二、三号証エギル、リーに対する証拠保全調書及び理事官質問調書等における以上各関係人の供述を綜合すれば、トールースは馬島八十八米頂通過後衝突に至るまでの間「ボーア、ポート」を令して左転中、左舷船首にあつた大理丸の縁灯が次第に左方から船首方に替り、トールースが百三十度にセツトしたとき右舷船首二分の一点約三ケーブルないし本船船丈の三倍半(約五百五十米)位のところで、紅灯のみとなり、方位が替らなくなつたので衝突の危険を感じ、機関停止全速力後退にすると共に二短音を発して「ハードポート」を令したことが認められる。そしてトールースが「ポート」を令したのは、そのウズ鼻に並航した頃と認むべきことは後記のとおりであるから、それは先に認定した馬島八十八米頂通過時刻及び同船の速力から考えて九時十九分過と認められ、その後「モーアポート」を令したのは、大理丸側から見てトールースがウズ鼻を通過したと認めて機関をスローにした時より後であり、しかもトールースにおいて未だ大理丸との衝突の危険を感じていなかつたときであることは、後記第四(3)の所説と乙第十四号証中における大理丸がスローダウンした時期及びその時の相手船の見える位置方位等に関する原告安村の供述とによりこれを窺いうべく、このことから考えて大体九時二十分過と推認される。更にトールースが全速力後退と共に「ハードポート」を令したのは、当然それより以後のことであつて、その時における前記両船の見合関係並に相互の距離等に照らし、同時二十一分頃であると認められる。よつて以上の時間的関係における操舵並に機関使用に伴う減速を考慮すれば、トールースの中戸島通過後衝突に至るまでの速力は平均して約十四節位であると認めるのを相当とするところ、それは被告主張の衝突地点に達するまでの同船の航程を航走時間四分で除した平均速力とほぼ一致するに反し、同一時間で原告主張の衝突地点に達するに必要な二〇・二節というが如き平均速力は、如何にも過大に失し不合理であることが明かである。

(2) 当審証人伊藤善蔵は、衝突船の船灯は潮流信号所の当直室信号所灯台から東方二十米の所にある、乙第七号証参照)と今治防波堤灯台を結んだ直線上一浬か一浬半で、一浬より少しあつたと思うと述べているが、一面乙第五号証の同人の報告書には約一浬とあつて、何れも大体の見当を目測によつて述べたにすぎないから、必ずしもその距離を一浬若しくはそれ以上と認めなければならぬものではない。

(3) 原告安村は、ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつたとき、大理丸は針路を北西二分の一北に替え、同灯台を少し右に見て進航していた」(乙第三号証)、「ウズ鼻を北西二分の一北に見て、スターボートイージーを令し、北西二分の一北にコースをセツトした。その時ウズ鼻が四分の一点右舷に見えた。」(乙第十四号証)と供述しているが、また北西二分の一北に針路を定めたとき、潮流のため二分の一点位左方に圧流されると考え早目に海図上の黒線の航路より右に出て進航し、ウズ鼻を一ケーブルないし一ケーブル半距てて通過する予定であつた、とも述べている(乙第三号証第十四号証)。右供述と、大理丸の従前の針路西二分の一北より北西二分の一北へと四点転針するに要するアドバンス(前進中、舵を一杯に取つた瞬間の地点から船の前進する距離をいい、本船においては船丈六〇米の四、五倍である、乙第六号証)及びトランスフアー(前進中、舵を一杯に取つた原針路線と、船が百八十度旋回したときの船位との距離)を考慮すれば、大理丸はウズ鼻灯台を北西二分の一北に見る方位線の左方約百米以内の針路線に定針したものと認められる。然るに当時潮流の方向は右の針路と余り交叉しておらず(甲第五号証の三内海潮流図参照)、且つ風向風力も北東の二(甲第六号証)であつた故、潮流のために著しく南方に圧せられることは考えられないところであり、従つてその針路と中戸島潮流信号所及び今治防波堤灯台を結ぶ線との交叉点は、被告の認定した衝突地点より少しく南方となる訳である。ところで先に引用した乙第十四号証中におけるトールースがウズ鼻を替つているように思われるのに左転の模様がないので、大理丸はスローダウンした、その時の対手船の方位は右舷船首一点あるなしのところであつたとの原告の供述部分と、トールースの馬島八十八米頂通過時刻及びその航力等を併せ考え、大理丸がスローダウンしたのは大体九時二十分頃であると認むべきところ、桜木貞夫に対する理事官質問調書(甲第八号証)中、「対手船の紅燈が本船々首少し右に見えたとき、本船は短一声を、次いで紅燈が正船首に見えた頃、再び短一声を吹き、対手船が左舷船首一点ばかり距離大理丸の船丈の十一、二倍のところで両舷灯を見せ、短二声を吹いた」「それまで本船は全速力であつたが船長はフル・アヘツド・ハード・スターボードを命じ、対手船は左転して来て衝突した。衝突時大理丸の船首方向は北東微北二分の一北であつた。」旨の供述(この供述と異る同証人の当審における証言及び乙第八号証の記載内容は措信しない)によつて認められる大理丸の衝突前の操舵模様(大理丸は北西二分の一北の針路から右転して衝突するまで六点回頭したこととに帰する)に徴すれば、大理丸は衝突当時前示予定針路線よりなお相当右方に進出していたものと認められる。

以上説明したところを綜合すれば、被告が本件衝突地点を中戸島潮流信号所から約百七十六度千五百五十米ばかりの洋上地点と認定したのは相当と認むべきである。原告は、甲第四号証シガード、クリスチヤンセン船長の供述書中、正確ではないが衝突約五分前に相手船を見たとの記載があつて、衝突地点に関する原告の主張を裏付けるものであると主張するけれども、これは同人が時計を見ての正確な時間を供述しているのでなくて、記憶に基き大体の見当を述べているにすぎないと認むべきであるから、未だ衝突地点に関する被告の認定を覆す資料とはなし難く、その他原告主張事実を認めるに足る証拠はない。

第三衝突に至るまでの大理丸の運航模様

(1)  大理丸が昭和二十八年一月五日午後七時五十三分頃(トールースの時刻に換算)、高井神島灯台を南微東一海里ばかりに航過し、針路を南西微西二分の一西とし、一時間十海里ばかりの全速力で備後灘航路第四、三、二号各灯浮標を左舷側二、三百米に見て航過し、九時八分頃竜神島灯台に並航したことは、原告の明かに争わないところであり、並航時竜神島灯台との距離が被告認定の如く千五、六百米であつたことは、大理丸の同灯台並航に至るまでの針路と、原告が第一、二審々判廷において(乙第六号証、第八号証、第十四号証参照)竜神島灯台並航のときコンパスによれば大浜灯台の方位は西八分の一北または西四分の一北であつた旨述べておること(大浜灯台をこの方位に見ることは竜神島灯台を千五、六百米に並航したことになる)とによりこれを認めうべく、大理丸が竜神島灯台と約一浬を距てて航過したとの原告本人の供述(当審における当事者本人尋問及び第六号証、第十四号証)は採用しない。

(2)  大理丸は竜神島灯台に並航して西二分の一に転針したのであつて、このことは桜木貞夫の理事官に対する陳述(甲第八号証)及び第二審々判廷におけるその証言(乙第八号証)によりこれを認めうべく、同人の当審第一回証言中、竜神島並航約一、二分の後(一、二分のこと故「すぐ」と答えても大差なしと思つたという)転針したとの部分は措信し得ない。

原告は、原告本人(乙第三号証第六号証第十四号証)、桜木貞夫(乙第八号証)中山操舵手(甲第二号証乙第八号証)の各供述によれば、大理丸が竜神島並航後大浜灯台を常に右舷に見て、それより右に向けないようにして進航していたことが明かであるのに、被告がこの大浜灯台の見え具合を考慮せずに大理丸の針路模様を認定したのは不当であると非難する。しかし仮りに原告本人の供述する如く、大浜灯台を西二分の一北に見てから西二分の一北に変針したとすれば、大理丸は従前の針路南西微西二分の一西から三点右に回頭したことになり、同船のアドバンス及びトランスフアーを考慮しても、西二分の一北に定針したとき約四千米を距てる大浜灯台を右舷船首僅かに一度以内に見るにすぎないこととなるところ、大理丸の如く手動操舵機によつて(乙第三号証参照)操縦する場合には通例四分の一点以上船首を左右に振りつつ進航するものであることは被告主張のとおりであるから、大浜灯台は時として左に見えることもある筈であり、従つて被告が同灯台を常に右に見て進航した旨の原告本人及び桜木、中山等の各供述を措信せず、大理丸が竜神島並航のときに西二分の一北に転針したと認定したのは相当というべく、原告の前記主張は理由がない。

(3)  原裁決が、大理丸において竜神島に並航し、西二分の一北に転針した後、原告は機関用意を命じて進行中、中戸島潮流信号が南流の初期を示していたので、西水道を通過する考の下に、九時十四分過ぎウズ鼻灯台が北西二分の一北三千四百米ばかりとなつたとき、右舷を令して針路を北西二分の一北に取り、同灯台を僅に右舵船首に見て進航し、同時十七分過ぎ右舷船首約二点三千米ばかり中戸島潮流信号所の少し北方に中水道を南下して来る機船トールースの白、白、紅灯を認めながら、本船が中水道を航行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたのに、速かにこれと遠ざかる方法を取らないで原針路のまま続行した、との事実を認定したのに対し、原告は大理丸の北西二分の一北に変針した時刻及び地点は竜神島灯台航過後の運航模様に関する誤れる認定を基礎としているばかりでなく、原告本人に対する理事官質問調書、第一、二審審判調書、中山利雄に対する理事官質問調書等における関係供述部分からすれば、大理丸が竜神島灯台を航過し、西二分の一北に定針した後大浜灯台を右に見て続航し、ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつてから徐々に右転し、北西二分の一北にセツトしたときも、同灯台を右四分の一ないし二分の一点に見て航行していたのであつて、中水道を東行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたのでないことが明かであると主張する。

しかし、被告の認定した右事実中、大理丸が西二分の一北に転針し、機関用意を令して続航中、中戸島潮流信号が南流の初期を示すのを見て(海上保安庁刊行潮汐表に従えば、南流開始時は午後九時三十五分であるが)、西水道を航行する考であつたことは、乙第三号証中の原告本人の供述よりこれを窺いうべく、またウズ鼻灯台が北西二分の一北になつた時刻及び地点については、大理丸の竜神島灯台航過後の針路模様と速力に潮流模様を綜合して算定しうるとする被告の説明は、これを首肯するに足りる。

次に大理丸が北西二分の一北に転じた運航模様は、先に第二(3)において認定したとおりであつて、即ち同船はウズ鼻灯台を北西二分の一北に見る方位線の左方百米以内に定針してウズ鼻灯台を僅に右に見つつ進航していたものと認められ、この針路は衝突地点附近の中水道の推せん航路から約二百米を距てるにすぎないこととなる故、大理丸の針路は著しく中水道の航路に接近していたものということができる。この認定に牴触する原告本人の供述(当審供述、乙第三、六、十四号証)及び中山利雄の証言(当審証言及び乙第八号証)は、共に採用し得ない。そして大理丸が九時十七分過ぎ右舷船首約二点三千米ばかり中戸島潮流信号所の少し北に機船トールースの船灯を認めた点は、原告安村の第一、二審々判決における供述(乙第六号証第十四号証)と、トールースの同信号所通過時刻が同時十八分であること及び同信号所に至るまでの同船の速力等を照合してこれを認定し得るところである。

(4)  続いて、原告安村は「相手船がウズ鼻を替つても左転の模様がなく、そのまま南下するように見え、同時二十分ころ右舷船首一点四分の一千二百米ばかりのところに紅灯を表示しているので、機関を微速力に減じたところ、相手船の二短音を聞いたので、一短音を発して右舵を令し、やがて本船は右転し始め、左舷船首一点ばかりに替つた相手船が両舷灯を表示し、左転しつつ再び二短音を発して接近するので、危険を感じ、一短音を発して右舵一杯に令するとともに機関を全速力前進にした」旨、原裁決が認定したのに対し、原告は大理丸が原針路で進行中、トールースがその前面針路を左転しつつ横切り、二短音を発して更に激左転したので、やむなく一短音を発し臨機の措置として激右転したと主張する。よつて審按するに、トールースがウズ鼻を替つているように思われるのに左転の模様がないので、大理丸が機関を微速力にしたことは、原告本人の供述(乙第三号証第六号証第十四号証)により認めうべく、そのスローダウンの時刻が九時二十分頃であることは先に認定したところである。また原裁決の認定する大理丸その後の運航模様は第二(3)において摘録した桜木貞夫に対する理事官質問調書(甲第八号証)中同人のこの点に関する供述部分と、相手船が二短音を発して左転して来たので、大理丸は一短声して右舵を取つたが、相手船が更に二短声して左転するので大理丸は一短声を発して右転しつづけた旨の原告本人の供述(乙第三号証第六号証第十四号証)、及び中山利雄に対する理事官質問調書(甲第二号証)中、短声一発船長がハーフスターボートを命令したが、続いて「相手船が左に曲げる」といつてハードスタボートを命じた旨の供述部分に、後記するトールースの衝突直前における運航模様を綜合し、これを認定することができる。この認定と異り、原告主張に照応する趣旨の当審における証人中山利雄の証言及び原告本人尋問の結果、同人等に対する理事官質問調書(乙第六号証甲第二号証)中の供述記載部分はいずれも措信し難く、その主張事実はこれを認め得ない。

(5)  なお「九時二十二分大理丸の船首が北東微北二分の一北に向いたときトールースの船首は大理丸の左舷側中央より少し後方二番倉の前部附近板に船尾から約七点の角度で衝突した。当時天候は曇で北東の軽風が吹き、潮候は上げ潮のほぼ中央期に属し、来島海峡中水道は南流に転じてから四十分ばかり経過した。」との原裁決認定の事実中、衝突時における大理丸の船首方向は桜木実習生に対する理事官質問調書(甲第八号証)中の同人の供述により認めうべく、これと後記トールースの船首方向とにより衝突角度も認定しうるのであつて、また当時の天候並に潮流模様については、原告において右裁決の認定を争つておらない。

第四トールースの運航模様

(1)  機船トールースは船客六名本邦揚貨物一、六三八トン外に通過貨物を載せ、船首三・三三米船尾五・九八米の喫水を以て、水先人広瀬広行乗組み、昭和二十八年一月五日午後零時五十分関門港外部埼沖を発して神戸に至る航行の途中、安芸灘第七灯号浮標を通過後、広瀬水先人は中戸島潮流信号所の信号が南流の初期を示していたので中水道を通過すべく転舵して一時間約十三海里半の機関全速力で続航した。そしてトールースは同時十二分小島南東端とコノセ灯標の一線を通過し、中水道のほぼ中央に向け、今治市北方の明るい灯火に向首する百八十四度の針路で進航し、同時十八分中水道のほぼ中央で中戸島潮流信号所を通過し、同時十九分馬島八十八米頂に並航した。以上の事実のうち、トールースの小島南東端コノセ一線、中戸島潮流信号所及び馬島八十八米頂各通過時刻が右の如くであることは、それぞれ先に説示したところであり、その余の事実は凡て当事者間に争を見ない。

(2)  原裁決は「トールースが馬島八十八米頂に並航後ウズ鼻灯台に並ぶころ、二短音を発してボートを令し暫くして再び二短音を発して左転」した旨認定したのに対し、原告は右認定は誤りであり、同船はウズ鼻並航時にボートすることなく百八十四度の針路のままで南下したと主張する。

エギルリーに対する証拠保全調書(乙第十二号証)及び理事官質問調書(乙第十三号証)によれば、狭水道通過後衝突前、水先人より最初にポートと次にモアポート最後にハードポートの号令がかかり、そのとおり操舵したことが明かで、またトールース船長クリスチヤンセンの供述(甲第四号証)によれば、二短音を三回吹鳴し、最初の二短音は本船をポートへ変針することを示すのに程よい時であつた、というのであるから、トールースの左転は大理丸との間に未だ衝突の危険を生じてない時期になされたものと認められるけれども、原告主張の如く、それがウズ鼻並航時になされたことを認むべき直接の証拠はない。しかして、原告安村は、トールースがウズ鼻を替つたと思われるのに左転の模様を認めなかつたと供述しており、(乙第十四号証)、中山操舵手も、とに角他船の赤灯は灯台の直下の方に向つていたと述べているが(乙第八号証)、トールースのような大型高速船にあつては、ウズ鼻並航と共にポートを令しても、夜間遠方より直ちに左転の模様がはつきりと視認し得るものでないことは当然であつて、ただ右各供述によれば少くもトールースがウズ鼻に至る前にポートを令していたのでないことを窺いうべく(従つて広瀬水先人の供述するように馬島八十八米頂並航ハードポートを令して百三十度に向けたとの乙第六号証同第十四号証中の供述部分は採用し難い)、これと先に認定した大理丸の針路並に衝突直前の運航模様及びトールースのポートを令して後衝突する迄の見合関係(第二(1)参照)等を綜合すれば、トールースの順潮中のアドバンス(それは被告主張の如く凡そ船丈の四倍六百米位と見られる)を考慮し、大体ウズ鼻に並航した頃最初にポートを令したものと推認することができる。原告の引用する証拠によつてはこの認定を左右するに足りない。

(3)  原裁決は、トールースがウズ鼻灯台に並航してポートを令した後の運航模様につき「暫くして再び二短音を発して「モーアポート」を令して左転中、相手船は両舷灯を表示し、やがて船首が百三十度に回つたころ、右舷船首二分の一点ばかりのところにて紅灯のみとなつたので危険を感じ、急ぎ機関を停止、つづいて全速力後退にかけると共に、二短音を発して「ハードポート」を令したところ、シガート、クリスチヤンセン船長は「ハードスターボード」を令したので、広瀬受審人はこれを拒みそのまま左舵一杯を持続せしめたが、船首がほぼ百度に向いたとき衝突し、相手船に接着したままで一分時の後機関を停止したところ、両船は間もなく分離した。」と認定した。そして以上の事実は衝突角度を除き、エギルリーに対する証拠保全調書(乙第十二号証)及び理事官質問調書(乙第十三号証)、シガードクリスチヤンセン船長供述書(甲第四号証)広瀬広行に対する理事官質問調書(甲第三号証)第二審々判調書(乙第十四号証)中の各関係供述部分を綜合し、且つ桜木貞夫の理事官質問調書(甲第八号証)中、「対手船の紅灯が本船々首少し右に見えたとき本船は短一声を、次いで紅灯が正船首に見えた頃再び短一声を吹き、対手船が右舷船首一点ばかり距離大理丸の船丈の十一、二倍のところで両舷灯を見せ短二声を吹いた」旨、及び第一審第二回審判調書(乙第八号証)中、「初め本船の短一声を聞いたとき船は右に廻りつつあつた」旨の供述を参酌し、これを認定することができる。また衝突当時トールースの船首が百度に向いていたことは、広瀬広行に対する理事官質問調書(甲第三号証)に衝突したとき竜神島灯台が左十度に見えていた旨の供述があるによつてこれを認めうる。

(4)  原告は、トールース船長が広瀬水先人の操船に容喙してハードスターポートを令したのは、フルアスターンのかけられる前であつて、その検討のためハードポートの実効が遅れ、トールースは百八十四度の針路のまま大理丸の針路を横切つたものであると主張する。

しかし、トールースが全速力後退と共にハードボートを令したのは、九時二十一分頃であると認むべきことは、第二(1)において判示したところであり、これとエギルリーに対する証拠保全調書(乙第十二号証)中、広瀬水先人の「ハードボート」の号令の後に船長が「ハードスターボード」と号令したが、水先人がそのままにしておけといつたので、船長の命令には従わなかつた、狭水道を通過してから面舵一杯にしたことはなく、船はたえず左へ左へと旋回していた旨の供述、広瀬水先人に対する理事官質問調書(甲第三号証)中、船長は衝突当時船橋にずつとおり、私が本船操船をやり、衝突少し前に少し操船に容喙したが私はこれを拒否した、私が「ボート」を命じ百三十度に転針中、船長は左転は違法ぢやないかと云つたので、私は内海航法ではこうしなければいかんと云つて拒否したところ、船長は何も云いませんでした、唯それだけで航海中は私に委せ切りでしたとの供述(乙第六号証第十四号証にも同旨の供述がある)等によつて見れば、クリスチヤンセン船長の操舵上の容喙は、トールースが百三十度近くになり、「フルアスターン」並に「ハードポート」の令せられた後になされたものであつて、しかも「ハードボート」の号令は船長の容喙に妨げられることなくしてそのまま維持され、船体は左転し続けたことが明かである。そしてトールースが百三十度の針路より更に左転して船首百度に向けたとき、大理丸と衝突したことは前示のとおりであるから、同船が百八十四度の針路のまま南下して大理丸の前面を横切つたとの原告の主張は是認できない。広瀬広行の当審第二回の証言中、船長と舵令についてデイスカスしたのは百三十度にセツトし、相手船の両舷灯を半点位に見た時であるとの供述は、必ずしも右認定を左右するものではない。

原告は、若し衝突前一分位にフルアスターンをかけたとすれば、衝突後一分以上もトールースが大理丸を押し続けるというのが如きことは起り得ないと主張するけれども、その根拠につき別段の説明がなく、却つて総トン数七千余トン、デイーゼル機関八、八〇馬力を具え(甲第三号証)全速力一三・五節を有するトールースの如き大型船が、全船力前進中機関停止全速後退にかけても、船体が停止するまでには少くも三分前後を要し、船丈の三倍ないし五倍進出することは、航海技術上一般に承認されることであるから、トールースがフルアスターンをかけて後一分位で衝突し、相手船と分離するまでなお一分時を要したと認定しても、格別不合理といい得ない筋合である。

第五衝突事故の原因

原告は、衝突の時刻及び衝突地点は原告主張のとおりであつて、トールースは原裁決認定の個所より遥に南下し来り、大理丸の正当な進路を横切つたので、大理丸は右舷を対して航過するに由なく、止むを得ず臨機の措置として右転したるも及ばず、遂に本件事故が発生したのであるから、これ全く相手船の船長及び広瀬水先人の運航上の過失に基因するものであると主張するところ、被告は、衝突時刻及び地点は原裁決認定のとおりであり、トールースが大理丸の正当な進路を横切つた事実はなく、却つて大理丸が南流時における航海方法を無視し、中水道を航行する東行船の推せん航路に著しく接近して進航し、且つ内海水道航行規則第六条第一項第二号の規定に違反し、互に右舷を対して通過すべきところを敢て右転したのが衝突の原因であるから、それは止むを得ずして採つた臨機の措置というに当らない旨主張する。よつて以下これに対し判断する。

一、航路について

内海水路誌は、航海の安全確保のため海上保安庁が水路業務法に基き編修した水路誌の一部であつて、その航路、航海方法、水路方法に関する記事は、海上技術者が船舶運航技術の規範的方法として従うべき必読の図書であり、その記載事項に留意しないことに基因して海上事故を惹起したときは、海図の記載を無視した場合と同様、そのこと自体一の過失と見なされる程に権威を有するものである。

内海水路誌一九頁には、

「航路 海図に記載の航路線は、大形船のとる推せん航路である。一般の船舶もなるべくこの航路を選定するがよい。」

二六頁には、

「来島海峡では内海水道航行規則第六条の航法によつて順潮には中水道、逆潮には西水道を通り、南北の入口では東航船と西航船とは違つた航路をとらなければならない。この航法によると、行きあい船は海峡の南北両口で北流のときには互に左舷対左舷で航過して一般航法と一致するが、南流のときは右舷対右舷となつて、一般航法の反対であるから、できるだけ早く海図記載の指定の航路にはいつて、狭い所で針路を横切らないようにすることが必要である。

この海峡の水域にはいつた後で潮流信号が変つても、操船に十分の余裕があるなら、この時の潮流信号に従つて順潮に乗る船は中水道を、逆潮で航行する船は西水道を通航しなければならない。」

と記載されている(内海水路誌にその記載あることについては、原告も争わない)。即ち、来島海峡における海図上の推せん航路は、内海水道航行規則第六条の定める航法に合致するように定められたものであつて、右規則にいう竜神島、津島、アゴノ鼻に「近寄り」又は「遠ざかり」の限界につき、海図の上に黒線を以てその標準を具体的に明示したのが、それである。

然るところ、先に衝突地点及び両船運航模様につき認定したところによつて見れば、トールースは東航船の推せん航路に従つて中水道を通過し、正当な航海方法を取つて進航していたものと認められるのに反し、大理丸は南流時に西航する船舶の推せん航路より北に偏して、相手船の通航する中水道の推せん航路に可成りに接近しつつ進航していたことが明かであるから、これは前記水路誌記載の注意事項を無視するものであつて、それ自体過失であり、本件事故発生の一因をなすものというべきである。

二、衝突直前大理丸が右転したことについて

(一)  内海水道航行規則第六条は、

汽船は来島海峡においては、一、中水道は順潮の場合に限り、又西水道は逆潮の場合に限り通航すること、二、右により中水道を通航する汽船は、竜神島津島及びアゴノ鼻に近寄り、又西水道を通航する汽船はこれに遠ざかり航行すること、即ち行逢船にありては南流において互に右舷を、北流において互に左舷を相対して航行するものとする旨を、

第七条は、

前条の潮流の流向については、中戸島潮流信号所の潮流信号に、又これに依り難い場合は水路部刊行の潮流表によるものとする旨、それぞれ規定している。

従つて当時南流であつたので、大理丸は西水道の航路を通り、東航のトールースと右舷を対して航過するよう航行しなければならなかつたのである。然るに本件において、大理丸はトールースがウズ鼻を替つているように思われるのに左転の模様がないので、機関を微速力にして進航中、相手船の二短音を聞き一短音を発して右転を令し、更に相手船が左舷船首一点ばかりに替つて両舷灯を表示し、左転しつつ再び二短音を発して接近するので、危険を感じ一短音を発し、右舵一杯に令すると共に機関を全速力前進にかけた結果、遂に衝突するに至つたことは、前認定のとおりである。即ち大理丸は相手船の左転信号に対し自己も直ちに左転すべきであつたに拘らず、右転したのであるから、明かに前記規則に違反する航法を採つたものといわなければならない。

(二)  そこで大理丸が右転したことが、果して切迫した危険を避けるための臨機の措置と認め得るか否かの点であるが、これにつき原告の主張するようにトールースにおいて大理丸の正当な進路を侵し、その前面を横切つたとの事実はこれを認めることができない。原告に対する理事官質問調書(乙第三号証)には「対手船はサザイ鼻附近に来たら左転するものと思いました」、第二審々判調書(乙第十四号証)には「対手船はウズ鼻と並んだころは当然左転するものと思つていたが云々」とあつて、原告がウズ鼻附近においてトールースの左転することを予期していたことが認められ、そして大理丸が機関を微速力にしたのは九時二十分頃で、トールースがウズ鼻を替つた頃であるから、その時における両船の距離は、衝突地点、衝突までの両船の運航模様、その時間的関係等に照らし、裁決認定の如く千二百米位と認むべきである。即ち原告はトールースがウズ鼻を替つたばかりの九時二十分頃その左転することを予想しつつ、相手船との距離千二百米程の所で自船の機関を微速力にしたのである。若し大理丸が西水道を航行する推せん航路に添つて正当に進航し、規則所定の航法に従つて右舷を対し航過するつもりであつたなら、何故このような措置に出たのであるか了解することができない。相手船との千二百米程の距離は、左転して替り行くに充分であるから、原告は機関を微速力とする代りに当然左転すべきであつたのである。然るに原告が左転せずして敢て微速力としたのは、自船が東航船の推せん航路寄りに進航しつつ、初めより相手船と左舷を対して通過する考であり、且つ相手船がウズ鼻を通過して左転すればほぼ真向いに行き逢うことが予想される関係上、他船が替り易いよう、その通過を待つために減速したところ(原告本人は乙第六号証の第一審第一回審判調書で、他船が替りよいようにスローにしたと述べている)、短二発して左転したトールースが更に左転を続けて接近して来たので、自船は今更ら左転も出来なくなり、周章激右転するに至つたものと推認せざるを得ない。そうとすれば、大理丸の右転は自ら招いた危険に対し、これを避けるために採つた措置にすぎないので、固より免責の対象とはなり得ず、従つてこれを目して止むを得ざるに出た臨機の措置ということはできない。

三、トールースが全速力後退の信号をしなかつたことについて。

原告はトールースがフルアスターンをかけたとき三短音を発していたとすれば、衝突一分ないし一分半前の両船の距離は六百ないし九百米存するので、大理丸も直ちにフルアスターンして衝突を回避し得た筈であるから、トールースが右信号をしなかつたことは海上衝突予防法第二十八条に違反する過失であると主張する。しかし、大理丸はトールースがフルアスターンする前、既に相手船の二短音を発して右転していたのであり、続いてトールースが二短音と共に激左転したのに対し、大理丸が全速力前進にかけて激右転した模機から見ても、原告がこれによりトールースの前路を無事に替しうるものと判断して行動していたことは推認するに難くなく、従つて若しもトールースにおいて全速力後退と共に三短音を発したとすれば、既に右転しつつあつた大理丸側においては激右転並に全速前進することによつて一層容易に相手船を替しうるものと思料してその措置に出ずべく、原告主張の如く相手船の信号に即応して全速力後退したのであろうとは考え得られないところである。それ故トールースが三短音を発しなかつたことは、結果的に見て本件事故発生の原因をなすものであるとは認め難く、原告の前記主張は採用できない。

第六結語

以上本件衝突に至るまでの経過並に衝突原因につき説明したところによれば、被告が本件衝突事故は、受審人たる原告安村において来島海峡の南流時に西水道に向け西行する際、内海水道航行規則第六条の規定に違反して、中水道を東行する船舶の航路に著しく接近した針路で進航し、中水道を南下する他船と行き合つたとき、速に右舷を対して航過するよう操船せずに、右転して左舷を対して替わさうとした原告の運航上の業務過失に基因するものであつて、相手船広瀬水先人の所為は本件発生の原因をなすものでないと判定し、原告の甲種船長の業務を二ケ月間停止する旨裁決したのは相当というべく、右裁決の取消を求める原告の本訴請求は理由がない。

よつてこれを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条に則り、主文のとおり判決する。

(裁判官 薄根正男 奥野利一 谷口茂栄)

昭和二十九年第二審第八号

裁決書

機船大理丸機船トールース衝突事件

広島県芦品郡駅家町大字万能倉八百十二番地の一

受審人 安村扶

明治三十九年一月一日生

高知県長岡郡国府村左右山四百九十番地

受審人 広瀬広行

明治三十七年十月一日生

右事件について、昭和二十八年十月三十日神戸地方海難審判庁の言渡した裁決を不当として、海難審判庁理事官木村清四郎、受審人安村扶及び同広瀬広行からそれぞれ第二審の請求があつたので、当海難審判庁は海難審判庁理事官寺田武が関与して、更に左のとおり裁決する。

主文

本件衝突は、受審人安村扶の運航に関する職務上の過失に基因して発生したものである。

安村扶の甲種船長の業務を二箇月停止する。

理由

船種船名       機船大理丸    機船トールース

船籍港        東京都      ノルウエイ・トンスベルグ

船舶所有者      大蔵省      ウイルヘルムセン汽船会社

大阪商船株式会社

総トン数       八百二十七トン  七千七十二トン

受審人        安村扶      広瀬広行

海技免状又は水先免状 甲種船長免状   内海水先区水先免状

職名         船長       内海水先区水先

事件発生の年月日時刻及び場所

昭和二十八年一月五日午後九時二十二分

内海来島海峡

機船大理丸は、空倉のまま船首一・五一メートル船尾二・六二メートルの喫水をもつて、昭和二十八年一月五日午前八時五十分神戸を発し長崎県高島に向け航行の途、港外において一時間ばかり漂流して機関の調整を行つた後続航し、同日午後七時五十三分(以下トールースの時刻に換算する。)ころ高井神島灯台を南微東(以下点で示すものは磁針方位で、度で示すものは真方位である。)一海里ばかりに航過し、針路を南西微西二分の一西とし一時間十海里ばかりの全速力にて備後灘航路第四、三、二号各灯浮標を左舷側二、三百メートル隔てて進航し、同九時八分ころ竜神島灯台を千五、六百メートルに並航して、西二分の一北に転針し機関用意を令して続航した。その後受審人安村扶は中戸島潮流信号が南流の初期を示しているのを認め、(海上保安庁刊行潮汐表によれば南流開始時は午後九時三十五分である。)西水道を航行する考えで、同時十四分過ぎウズ鼻灯台が北西二分の一北三千四百メートルばかりとなつたとき、右舵を令して針路を北西二分の一北とし、同灯台を僅かに右舷船首に見て進航中、同時十七分過ぎ右舷船首約二点三千メートルばかり中戸島潮流信号所の少し北方に中水道を南下している機船トールースの白、白、紅灯を認め、相手船は中戸島通過してから左転して互に右舷を相対して替るものと思い、本船が中水道を東行する船舶の航路に著しく接近する針路で航行していたのに、速やかにこれに遠ざかる方法をとらないで原針路のまま続航した。安村受審人は、相手船がウズ鼻を替つても左転の模様がなくそのまま南下するように見え、同時二十分ころ右舷船首約一点四分の一千二百メートルばかりのところに依然紅灯を表示しているので、機関を微速力に減じたところ相手船の二短音を聞いたので、一短音を発して右舵を令し、やがて本船は右転し始め、左舷船首一点ばかりに替つた相手船が両舷灯を表示し、左転しつつ再び二短音を発して接近するので、危険を感じ、一短音を発して右舵一杯に令するとともに機関を全速力前進にしたが、遂に同時二十二分船首が北東微北二分の一北に向いたとき、中戸島潮流信号所から約百七十六度千五百五十メートルばかりのところで、トールースの船首は大理丸の左舷側中央より少し後方二番倉の前部附近外板に船尾から約七点の角度で衝突した。当時天候は曇で、北東の軽風が吹き、潮候は上げ潮のほぼ中央期に属し、来島海峡中水道は南流に転じてから四十分ばかり経過していた。また、機船トールースは、船客六名、本邦揚貨物千六百三十八トン、ほかに通過貨物を載せ、船首三・三三メートル船尾五・九八メートルの喫水をもつて、受審人広瀬広行が水先として乗船し、同月五日午後零時五十分関門港外部埼を発し、神戸にいたる航行の途、安芸灘南航路第七号灯浮標を通過して後、広瀬受審人は中戸島潮流信号所の信号が南流の初期を示しているのを認めたので、中水道を通過するため同第八号灯浮標を左舷側百七、八十メートルばかり隔たるように左転して進航し、同浮標通過後徐々に右転して大島の亀老山に向首し、百二十度の針路とし、一時間約十三海里半ばかりの全速力にて続航した。同九時十二分広瀬受審人は小島の南東端とコノセ灯標が一線になつたとき、右舵を令して武志島に向首し、やがて大浜灯台が見えて来たので右舵を令し、一長音の信号を二、三回繰り返えしつつ、中水道のほぼ中央に向け、次いで今治市北方の明るい灯火に向首して百八十四度の針路にて進航し、同時十八分同信号所を水道のほぼ中央にて通過した。そのころ広瀬受審人は左舷船首約二十五度二千五百メートルばかりに、白、白、緑灯を表示した大理丸を認め、相手船は大島に接近した針路で西水道に向かいつつあると思い、同時十九分馬島南部八十八米頂に並航したる後、ウズ鼻灯台に並ぶころ二短音を発して「ポート」を令し、暫くして再び二短音を発して「モーア、ポート」を令して左転中、相手船は両舷灯を表示し、やがて船首が百三十度附近に回つたころ右舷船首二分の一点ばかりのところにて紅灯のみとなつたので、危険を感じ、急ぎ機関を停止、つづいて全速力後退にかけるとともに二短音を発して「ハード、ポート」を令したところ、シガート・クリスチヤンセン船長は「ハード、スターボート」を令したので、広瀬受審人はこれを拒みそのまま左舵一杯を持続せしめたが、船首がほぼ百度に向いたとき前示のとおり衝突し、相手船に接着したままで一分時の後機関を停止したところ、両船は間もなく分離した。衝突の結果、トールースは船首附近両舷外板に擦過傷を生じ、船首楼右舷ハンドレールの一部を破損したのみであつたが、大理丸は衝突箇所に大破口を生じ、浸水甚だしく、同十時五分ころ地蔵鼻南方沖合に沈没し、乗組員は相手船及び漁船に無事救助された。

右の事実中、大理丸が神戸を、またトールースが部埼をそれぞれ発してから衝突するまでの経過については、受審人安村扶、同広瀬広行の提出せる各海難報告書、海難審判庁理事官の広瀬受審人、トールース操舵員エギル・リー、安村受審人、大理丸機関長飯盛政夫、同実習生桜木貞夫、同操舵員中山利雄、中戸島潮流信号所員海上保安官伊藤善蔵、海上保安官松島信太郎及び漁夫矢野数高に対する各質問調書、シガート・クリスチヤンセン船長提出の英文トールース航海日誌、機関日誌の各抜萃及び供述書、同和訳文、神戸地方裁判所の証拠保全事件調書謄本、原審の中戸島潮流信号所検査調書、岡積理事官の沈没地点附近海域の検査調書、根東理事官の機船トールース検査調書、第六管区海上保安本部長提出の大理丸沈没位置推定図、同水路課長瀬尾正夫作製の油流出箇所測定図、海上保安官松島信太郎作成油流出箇所メモ、神戸大学工学部教授井上嘉亀作製の鑑定書、大理丸一般艤装図、同羅針儀矯正記録、同旋回力成績表、トールース船体図写真、トールース損傷写真、大浜灯台長提出の気象観測写、中戸島潮流信号所の潮流信号月報、同検潮自記紙、原審廷における安村受審人、広瀬受審人、証人伊藤善蔵、同桜木貞夫、同中山利雄、同飯森政夫、同元居甚十郎及び同矢野数高の各供述、並びに当廷における安村受審人、広瀬受審人、証人海上電機株式会社技師土居清の各供述及び鑑定人海上保安庁水路部測量課勤務海上保安官川村文三郎の鑑定証言により証拠は十分である。しかして

一、大理丸の高井神島及び竜神島両灯台通過時刻は、安村受審人に対する前示質問調書中「時計は出帆当日ラジオに合わしたから正しい」との供述記載と中戸島潮流信号所とトールースの時計との間に二分の差がある点に鑑みその差を大理丸の時刻に改正し、

一、大理丸の高井神島灯台航過地点並びにその後の針路模様は安村受審人に対する前示質問調書中同旨の供述記載及び原審廷における同人の同旨の供述により、

一、大理丸の竜神島灯台航過地点については高井神島灯台航過地点からの針路模様により、

一、大理丸の速力は安村受審人の当廷における供述により、

一、大理丸が竜神島灯台航過後西二分の一北の針路に転じた点は桜木証人の原審廷における証言により、

一、安村受審人が潮流信号が南流の初期を示しているのを認めた模様は同人の当廷における供述及び同信号の射光限界により、

一、ウズ鼻灯台が北西二分の一北となつた時刻並びに地点は竜神島灯台航過後の針路模様と速力に潮流模様を勘案して同灯台航過地点、同時刻から算定し、

一、ウズ鼻灯台が北西二分の一北になつたときに転針した模様は安村受審人の原審廷並びに当廷における同旨の供述により、

一、安村受審人がトールースを初めて認めた時刻、方位及び相手船の位置については同受審人の原審廷及び当審における同旨の供述並びにトールースの中戸島潮流信号所航過時刻を照応し、

当時の両船の距離は両船の針路、速力に潮流の模様を勘案して、大理丸は衝突直前の連航模様とにより衝突地点から、トールースは同信号所航過地点から各逆算した両船の位置により、

一、安村受審人が相手船はやがて左転して右舷を対して替るものと思つた点並びに相手船はウズ鼻を替つても左転する模様がなくそのまま南下するように見えた点は同人の原審廷並びに当廷における同旨の供述により、

一、大理丸が中水道を東行する船舶の航路に著しく接近した針路で航行していた点は大理丸の針路のままでは衝突地点附近においては東行船の推薦航路と僅かに二百メートルを距てるのみであり、且つ東行船の転針点にあたつていた点に徴し、

一、安村受審人が機関を微速力にした時刻は同人の当廷における供述によるトールースの位置を勘案し、

一、機関を微速力にしたときの相手船の見合関係は両船の針路模様、速力に潮流模様を勘案して大理丸は衝突直前の運航模様とにより衝突地点から、トールースは前示信号所通過地点から各算定した各船の位置及び船首方向とにより、

一、大理丸が機関を微速力にしてから衝突するまでの運航模様は桜木実習生に対する前示質問調書中「相手船の紅灯が本船船首少し右に見えたとき本船は短一声を、次いで紅灯が正船首に見えたころ再び短一声を吹き、相手船が左舷船首一点ばかりのところで両舷灯を見せて来たとき相手船は短二声を連続的に二回吹きました。暫くして本船は短二声を一回吹き間もなく衝突しました。」旨の供述記載、安村受審人に対する前示質問調書中の供述記載並びに相手船の衝突直前の運航模様を総合し、

一、大理丸の衝突当時の船首方向は桜木実習生に対する前示質問調書中同旨の供述記載並びに同人の原審廷における同旨の証言により、

一、衝突時刻は広瀬受審人の主張する時刻をとり、

一、衝突地点は伊藤海上保安官に対する前示質問調書並びに同人の原審証人尋問調書中「衝突地点はドスンと音を聞いて見たとき中戸島潮流信号所から今治防波堤灯台を見通す一線上で約一浬の処であつた」旨の供述記載、トールースの中戸島通過後の針路、速力、潮流模様、操舵模様並びに機関使用模様及び大理丸が北西二分の一北の針路でウズ鼻を僅かに右舷船首に見て進航し右転して衝突した点を総合し、

一、衝突角度は両船の衝突当時の船首方向により、

一、トールースの中戸島潮流信号所通過までの針路模様、潮流信号を認めた模様及び同信号所通過時刻は広瀬受審人の原審並びに当廷における供述により、

一、トールースの速力は部埼、中戸島潮流信号所通過両地点間の平均速力と広瀬受審人の当廷における供述とを照応し、

一、広瀬受審人が初めて相手船を認めた時刻及び模様はトールース船長の前示供述書中同旨の供述記載及び大理丸の針路模様、速力、潮流模様、衝突直前の運航模様によつて衝突地点から逆算した同船の位置と船首方位と、トールースの当時の位置と船首方向とにより、

一、トールースが馬島八十八メートル頂に並航した時刻は広瀬受審人の原審廷並びに当廷における供述により、

一、広瀬受審人がウズ鼻灯台に並ぶころ「ポート」を令した点は安村受審人が九時二十分ころトールースが左転しつつあることを認めなかつたこと、大理丸の針路並ぶに衝突直前の運航模様及び「ポート」を令した後の相手船の見合関係を総合し、

一、トールースの操舵模様はエギル・リーに対する前示質問調書中同旨の供述記載並びに神戸地方裁判所の証拠保全調書中同人の同旨の供述記載により、

一、広瀬受審人が相手船が両舷灯を表示しやがて船首が百三十度に向くころ右舷船首二分の一点ばかりで紅灯のみとなり、危険を感じ、機関を停止、つづいて全速力後退にかけるとともに二短音を発した点は広瀬受審人に対する前示質問調書中同旨の供述記載並びに同人の当廷における供述により、

一、衝突直前のトールースの運航模様は広瀬受審人の原審廷並びに当廷における供述及びエギル・リーに対する前示質問調書中の供述記載により、

一、トールースの衝突当時の船首方向は広瀬受審人に対する前示質問調書中「衝突当時竜神島灯台が左舷十度位に見えていた」旨の供述記載と衝突地点とにより、

一、両船の損傷模様は証人桜木貞夫、同元居甚十郎の原審廷における同旨の供述、根東理事官のトールース検査調書及びトールース損傷写真により、

一、大理丸の沈没地点は前示大理丸沈没位置推定図により、

一、天候については前示大浜灯台の気象観測写及び安村、広瀬両受審人のほぼ一致した供述により、潮候潮流については海上保安庁刊行の潮汐表、内海潮流図及び中戸島潮流信号月報により、

いずれもこれを認めた。

しかしてトールース側は衝突地点は中戸島潮流信号所を三百三十一度、竜神島灯台を九十七度に見る地点である旨主張するも相手船がかゝる通常考えられない針路をとつた証拠がなく、又広瀬受審人の主張するとおりに八十八メートル頂から左転して百三十度の針路とし、百十度まで左転して衝突したとしても同地点には達しない点に徴し、また、安村受審人は北西二分の一北の針路で進航中、トールースは正船首約半海里のところを紅灯を表示しつつ右方から左方に替り、左舷船首一点半ばかりで二短音を発して左転し来たつたので、一短音を発して激右転し機関を全速力前進としたが遂に衝突し、衝突するまで相手船の緑灯は見なかつた旨主張するが、これでは両船の進路、速力、旋回圏の模様により衝突は起らない点に徴し、いずれも措信し難くこれを排斥して前示のとおり認定した。

本件衝突は、海難審判法第二条第一号に該当し、受審人安村扶が来島海峡の南流において西水道に向け西行する場合、内海水道航行規則第六条第二号の規定に違反して、中水道を東行する船舶の航路に著しく接近した針路で進航し、中水道を南下する他船と行き会つたとき、速やかに右舷を相対して航過するよう操船すべきであつたのに、右転して左舷を相対して替わそうとした同人の運航に関する職務上の過失によつて発生したものである。

受審人安村扶の所為に対しては、海難審判法第四条第二項の規定により、同法第五条第二号を適用し、同人の甲種船長の業務を二箇月停止する。

受審人広瀬広行の所為は本件発生の原因をなすものと認めない。

よつて主文のとおり裁決する。

昭和三十年七月二十七日

高等海難審判庁

(審判長審判官 長屋千棟、審判官 藤枝盈、審判官 小松孝、審判官 椎原茂武、審判官 鹿島寅三)

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